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天災・飢饉から農業守る
備荒政策も天災・飢饉(ききん)から農業経営を守り、本百姓経営を堅持するための方策であった。平素より穀物などを蓄えておく備荒策は、なにも天明の飢饉によって考え出された概念でない。すでに享保改革のとき、上米(あげまい)の制があった。
これは大名から一万石につき百石ずつ献上米を提出させ、そのかわり参勤交代の江戸での滞在期間を半年に縮めるというものである。幕府の財政を補うための導入であったことは言うまでもなかろう。定信は、この制度をとり入れたのである。
幕府は自ら蓄米を図るとともに、寛政元(1789)年、収納倉庫である郷蔵(ごうぐら)を直轄領に建て、米・麦・雑穀を貯蔵するよう命じた。この蓄穀を囲米(かこいまい)と言う。飢饉救済のための穀物は、凶荒の際に貸し与えられ、年賦償還させた。
定信は、「御領村々に夫食(ふじき)米、雑穀かこひ置待り候はゞ、10分の1つは上よりも給はるべしと触れたりけり」(『宇下人言』)と言うから、幕府も郷蔵へ10分の1の補助をしていた。
諸藩においても同様で、寛政2(1790)年、諸大名に一万石につき五十石の割合で5年間、毎年囲籾(かこいもみ)するように命じた。一万石以下の旗本にも、各自知行地において囲籾を奨励したのである。(『御触書天保集成』)。諸藩では、江戸前期から村民や富農が出穀貯蔵した社倉(しゃそう)・義倉(ぎそう)があり、これらと同じ役割を担う郷蔵が加わった。
白河藩では、定信が藩主となって以来、郷蔵の充実がみられ、会津藩では、社倉、義倉と併用して郷蔵の利用がはかられた。江戸後期に起こった郷蔵の制度は、寛政期より幕末に至るまで維持されたのである。
囲米による窮民救済政策は、農村のみならず都市でも推し進められた。農村での郷蔵による囲米に対し、都市では七分積金(しちぶつみきん)による町会所の囲米である。江戸では町の機能や運営を可能にさせるため、公共に必要な経費を地主が負担する制度があった。治安・防火・祭礼・普請などの費用で、町の経費として支払われた。費目は、町自体が大きくなればなるほど増大した。こうした町の運営に必要な経費を町入用(まちにゅうよう)といった。
幕府は当初、地主の負担率の公定に注意を払ったが、寛政期には町の経費の節減に、つまり町入用総額の減額に関心を向けたのである。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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定信に抜てきされ老中格になった泉藩(いわき市泉町)の本多忠壽の城下町の面影を今に残す北野神社から諏訪八幡神社まで走る幅5間(9メートル)、延長800メートルの一直線道路 |
【2008年10月29日付】
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