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7分積金で貧民を救済
寛政2(1790)年、幕府は江戸の町々に町入用を書きださせてその実態調査を行い、消防費・祭礼費の節約、事務の簡素化、人員の削減など町入用の減額案をまとめた。定信は勘定奉行、町奉行らと減額案を検討し、町入用減額高のうち10分の7、つまり70%を積み立て、貧民救済資金とした。定信は7分積金について、
その(町入用)減じたるうち之7分は、町々永続かこひ籾(もみ)つみ金之料として、年年のけをかれ、上よりも御金壹万両町々へ被下、これまたつみ金とともにかし付、或は籾をかい納め、または鰥寡(かんか)孤独なんど之よるべなきもの、又は火にあふて家たつべき力なき地主なんどへ被下料に被仰出(おおせいただき)。猶(なお)のこる3分のうち、1分は町入用のましに被下、2分は地主へ被下。(『宇下人言』)
という。町入用減額の70%を積金とし、そのうち1万両を囲米の購入にあて、10%を町入用の補充とし、20%を負担者の地主にもどし軽減した。寛政3(1791)年、7分積金令が敷かれ、寛政4年、浅草向柳原に町会所や米蔵が造られた。積立金の取り扱いを命じられたのは勘定所御用達(ごようたし)町人で三谷三九郎ら10人の豪商によって運営された。
寛政4年と同11(1799)年、幕府は1万両を下賜し、積金を加増させた。とはいえ町会所は勘定方や町方役人でなく、基本的には町人らによる運営会所であった。7分積金は貧民救済や低利融資に役立ち、町会所がにぎわったことは言うまでもない。定信は、『宇下人言』に、「老て子なく、妻夫なき類、いとけなくしてたよるかたなきものなんど、いひ出たらば渡し可遣(つかわすべし)とてふれければ、1日に20人、30人、今にたへず出待りぬ」と言っている。
町会所は、その後も熱心に貧民救済を行い、文政4年(1821)、風邪流行により窮民29万7000人へ施銭し、天保2年から8年の間に、米の高騰や風邪流行などにより数十万の窮民に囲米や積金を放出した。寛政4年設立の町会所は、その役割を果たしつつ、幕末まで存続したのである。
7分積金による貧民救済ばかりか、貧民層自体の更生策も練られた。寛政2年、火付盗賊改(あらため)長谷川平蔵の発案により、江戸石川島に人足寄場(にんそくよせば)が設けられた。増えつづける都市の無宿浮浪人や軽罪の者が、ここに強制的に収容された。江戸の打ちこわしの再発を防止するという治安対策であり、同時に授産所の役割もあった。
収容人は人夫として働かされ、油絞りや牡蠣殻灰(かきがらばい)作りなどの作業をして賃金を得た。また収容人の更生のため、中沢道二の心学道話が講義された。職人の技術を身につけたり、銭三貫文をためたり、身元引きうけ人のある者などは、釈放されて社会復帰した。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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松平定信の居城であった小峰城の復元された三重ノ櫓(やぐら)=白河市 |
【2008年11月5日付】
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