minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 松平定信公伝TOP 】
【 寛政の改革・商業政策(2) 】
 
 財政悪化で豪商を登用

 田沼期に繁栄した札差(ふださし)業は、商品貨幣経済が急速に発展するなか、単に高利貸商人という以上に、江戸の大富裕商人であった。「十八大通(だいつう)」で知られる通人は―十八とは必ずしも18人に限定される人数でないが―その多くが札差であった。
 
 大口屋治平衛(暁雨のち暁翁)・下野屋十右衛門(祇蘭)・伊勢屋喜太郎(百亀)・近江屋佐平治(景舎)・笠倉屋平十郎(有〓)・大口屋八兵衛(金翠)・伊勢屋宗四郎(全吏)・伊勢屋宗三郎(a里)・松坂屋市右衛門(左達)らは札差である。札差のほか魚問屋や吉原遊女屋の主人も、また蘭学者の桂川甫周や国学者の村田春海も通人に挙げられている。
 
 弘化3年の『十八大通 一名御蔵前馬鹿(おくらまえばか)物語』に大通(だいつう)の特性を述べるが、「元禄の比(ころ)の異風残り、分(わき)て其中に蔵前者は何れも男伊達の風儀残り」とある。
 
 蔵前者とは札差で、浅草蔵前近辺に店を構えていたためであり、元禄の遺風と男伊達(だて)を旨としたのである。さらに「洒落(しゃれ)」や「思い付き」も特性として挙げている。大通は髪形を本多髷(ほんだまげ)とし、大黒紋の小袖を着、鮫鞘(さめざや)の一刀を差し、まっすぐに木目の通った下駄(げた)をはき、手を左右に大きく振り、ももを高く上げて八字に歩いた。こうした役者気どりの振る舞いを蔵前風といったが、市川団十郎の演じた当たり役の一つ、助六をまねた所作であった。
 
 札差が繁栄し、大通が金に糸目をつけずに奢侈(しゃし)に浸ることができたのは、裏をかえせば、旗本・御家人の財政的窮乏が増大したことである。旗本・御家人のなかには、賭博(とばく)や淫風(いんぷう)に身をやつし、武士たる風儀をなくした者もいた。経済力をつけた札差はやがて、「御家人などをもあしざまにもてなし」、また出向いた旗本にも「蔵宿のぬしは出ず、手代など出してあしざまにあしら」う、といった有様(ありさま)であった。(『宇下人言』)そればかりか歌舞伎役者をまねた十八大通の風体は、だらしなく乱れ、「失礼尊大の様子不届きの至り」と定信をして言わせるほどであった。
 
 そこで寛政の改革では、札差の改革が求められ、定信が将軍補佐となったころから、札差仕法改正策が検討された。幕府は天明8年から翌年にかけ、勘定所御用達として、新たに江戸の富裕商人10人を登用させた。
 
 幕府は、明和7(1770)年300万両ほどあった御金蔵(ごきんぞう)の備金が、天明8年には81万両に激減するという財政的悪化のなかで、豪商の金融資金を利用せざるを得なかったのである。したがって、田沼期の重商政策でみられたような特定の富裕商人と結びついた商業金融形式が、寛政の改革でも継承されたといえる。
 
 米価と諸物価を安定するために採用された勘定所御用達は、旧来の米穀商や札差でなく、大名貸などで財力をつけた有力な両替商らであった。かれらは江戸に居住する豪商であり、たとえ店が江戸にあっても、家居を上方とする商人は、勘定所御用達に登用されなかった。
 
 これには、大坂市場に依存していた江戸の商業市場を引きあげ、江戸の市場を統制しようとする狙いもあった。勘定所御用達は、後述する猿屋町会所の資金出資や運営を担い、幕末に至るまで幕府の財政金融政策に参画したのである。
(福島大名誉教授)
※〓は「遊」の「しんにょう」部分が「さんずい」

磯崎 康彦

>>> 32


寛政の改革・商業政策(2)
松平定信の側室らの墓所がある常宣寺=白河市内

【2008年11月19日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN