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  【 松平定信公伝TOP 】
【 尊号事件(上) 】
 
 朝幕関係に生じた亀裂

 江戸時代の朝幕関係は、朝廷の伝統的な権威を奉じて統一国家をつくろうとする信長や秀吉の公武関係と異なった。江戸時代朝廷の料地は2万石にすぎず、政治の実権から遠ざかった。幕府は表向き、尊王主義をとったが、内実は朝廷を規制して拡大する勢力を抑えたのである。

 『公家衆法度』や『禁中并(ならびに)公家諸法度』を定めたり、京都所司代を設置したのも、朝廷・公家の権力を取り締まるためであった。

 しかし尊王の大義を力説するものが現れ、またわが国の古典研究により天皇の権威を明示するものが出るなどして、朝幕間に亀裂が生じることもあった。

 そうした亀裂のひとつが、尊号事件である。一言でいえば、光格天皇が実父の典仁(すけひと)親王に太上天皇の尊号を贈ろうとした事件である。またこの事件と直接的関係はないが、これと前後して、将軍家斉が実父一橋治済(はるさだ)に大御所の称号を贈ろうとした大御所事件も起こった。

 尊号事件は、徳富蘇峰著『松平定信時代』、渋沢栄一著『楽翁公伝』に詳述される。ここでも参照させていただくが、渋沢氏は尊号問題を、「唯名分を重んずるの一語に尽く」とされる。定信は名分論をもって、この事件の解決にあたったのである。

 名分とは、名称と職分・身分の内容との一致である。名分論はわが国の朱子学でとりわけ重視され、名としての社会的地位とそれに対応する内容としての職分上の責任とを充当することであった。名分論と内容上重複し酷似したものが、正名論である。

 定信は若いころより、名分論や正名論を学んだ。21歳から23歳までの3年間に読み上げた書籍を『読書功課録』に記すが、そこに朱子の選した『通鑑綱目』がある。『通鑑綱目』は、周の威烈王から5代後周の世宗までの君臣の事跡を述べた『資治通鑑』を要約し、史実に沿って大義名分を明らかにする。定信は22歳のとき、これを読んだ。

 天明元(1781)年、定信は『正名考』を著し、その初めに、「名正しからざれば事順ならず、またしたがって其実をうしなふ、其実をうしなへば後の証ともなるべからず、よく正し侍るべきは名なりけり」と書く。名と実の一致の考えを展開する。

 天明6年の『鸚鵡の詞』でも、「名の名たるをしれば、よく名を正しくす、名の名たるをしるは、道をしらざればかたかるべし」という。名のあずかるところを重視している。

 定信は若いころから追究した名分論をもって尊号事件や大御所事件に対応した。定信は名分を貫くことこそ、徳川幕府により統一された天下の秩序を安定可能とさせる、と考えたのである。

 光格天皇は―諱(いみな)は兼仁(ともひと)、称号は祐宮(さちのみや)―閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王を父とし、明和8(1771)年に生まれた。閑院宮家は、新井白石の建白により宝永7(1710)年に創立された新しい宮家である。

 安永8(1779)年、祐宮9歳のとき、後桃園(ごももぞの)天皇の皇位を受け継いだ。後桃園天皇は、後桜町(ごさくらまち)天皇から明和7(1770)年に譲位され、在位9年にして安永8年に死去した。

 後桃園天皇に跡継ぎがいなかったため、とり急ぎ皇位を継承したのが、祐宮こと光格天皇であった。

 さて問題となる太上天皇という称号は、退位した天皇の敬称で、上皇のことである。光格天皇は、実父典仁親王に太上天皇の尊号を贈り優遇しようとした。というのは、光格天皇は実父が親王のため関白、大臣の下に座さねばならないことを憂慮したからである。

 17条からなる『禁中并公家諸法度』は第1条に天皇の諸芸を第一に学問とし、その第2条に親王の座位を三公(太政大臣、左右大臣)の下と規定していた。光格天皇は太上天皇の尊号宣下により、席次の問題を解決し厚遇しようとしたのである。

(福島大名誉教授)


磯崎 康彦

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尊号事件(上)
白河市の南湖公園

【2009年2月4日付】
 

 

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