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  【 松平定信公伝TOP 】
【 外交と蘭学・アイヌ騒乱(2) 】
 
 7万人余投入し開拓へ

 工藤平助は対露問題を憂えて『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』をまとめ、ロシアとの交易や蝦夷地開拓が必要であることを勘定奉行松本伊豆守秀持(ひでもち)に建議した。勘定奉行は田沼意次に伺書を提出し、賛同を得るや、平助の意見書を採用した。

 そこで蝦夷地の調査を勘定組頭土山宗次郎や松前藩に命じ、天明5(1785)年、大規模な調査隊を送ることとなった。その際、食糧貨物を運搬するため、800石積の船2隻を大湊(おおみなと)で新造させたのである。

 普請役5人と下役からなる調査隊は、天明5年2月松前へ向かい、松前藩と相談し、東蝦夷地調査隊と西蝦夷地調査隊に分かれて踏査に乗り出した。

 前者の調査隊は山口鉄五郎、青島俊蔵、青島の下役最上徳内、松前藩の案内人・通詞・医師らであり、蝦夷地東岸を経、クナシリ・エトロフ・ウルップなどの諸島を踏査することであった。

 後者の調査隊は庵原(いはら)弥六、佐藤玄六郎、下役、松前藩の協力者からなり、蝦夷地西岸を経、宗谷そうやからカラフトを踏査することであった。松前には連絡役として皆川沖右衛門が残った。

 東蝦夷調査隊は東岸を検分し、クナシリ島へ渡った。しかしそこより先は荒波のため進めず、しかも初冬も迫り、アイヌからロシア人の風聞も得たため、下役大石逸平を厚岸(あっけし)に残して松前へ戻った。

 他方、西蝦夷調査隊は西岸を通り宗谷へ進んだ。同地で装備を調え、庵原弥六と下役は、渡海してカラフトに向かったが、厳寒と食糧不足のため宗谷に引っ返し、同地で越冬した。しかし翌6年3月、同地で病死してしまう。

 松前より宗谷へ向かった佐藤玄六郎は、宗谷で庵原と別れ、蝦夷地東北海岸を検分、その後東蝦夷地へ向かい、厚岸に着いた。厚岸では、東蝦夷調査隊が松前へ戻った後で、山口や青島と会えず、かれらを追って松前へ帰った。松前で会した一行は、相談の結果、天明5年冬、調査復命のため佐藤玄六郎を江戸へ向かわせたのである。

 江戸に着くや佐藤玄六郎は、松本伊豆守に調査を報告し、松本伊豆守は天明6(1786)年3月、「蝦夷地の儀(ぎ)に付申上候書付」を老中に提出した。

 本蝦夷地の儀、周廻凡(およそ)七百里程、カラフトは本蝦夷地に不劣大島と相見え、クナシリ島は周廻凡百五拾里、エトロフ島は周廻凡三百里、ウルッフ島は周廻凡百五拾里程有之候由にて、広太成土地候処、蝦夷人共は纔(わずか)住居仕候て、一本空虚に有之(中略)いつれにも人別少く、糧乏敷(かてとぼしき)候ては、御取締の筋出来難仕候に付、先つ本蝦夷地を新田畑に開発仕候積、(中略)蝦夷人共え農具をあたへ、種子物を渡し、作り方教候はゝ、当時の蝦夷人別にても、早速新開余程出来可謹仕旨にて、凡見積反別の儀左の通申聞候
本蝦夷地周廻凡七百里程の内
一、平均凡長百五拾里横五拾里但三拾六丁壱里の積り 此反別千百六拾六万四千町歩
右十分一
百拾六万六千四百町歩
新田畑開発可相成積
「此高凡積五百八拾三万弐千石」
「但壱反に付、五斗代の積り」(新北海道史・第7巻)

 要約すれば、蝦夷地は広大のため取り締まりは難しい。この広大な地を開拓するには、蝦夷に農具や種子を与えて農業を教えなければならない。

 周囲700里の蝦夷地は、1066万4000町歩で、その10分1を田畑として開拓すれば、116万6400町歩となろう。1反歩につき5斗の米収穫と計算すれば、583万2000石となるという。そうはいってもアイヌだけの開拓では、人数不足であるから、弾左衛門を呼び出して尋ねた。すると、

当時取極(とりきめ)支配仕候武蔵 上野(こうずけ) 安房 上総(かずさ) 下総伊豆 相模其外、下野 常陸 陸奥 甲斐 駿河の内罷在(まかりあり)候長吏非人共ども、人別高三万三千人余、此内七千人程は場所え引移し、新開為仕可申候

 という回答を得たのである。さらに「諸国に罷在候長吏非人等、人別高凡弐十三万人程可之哉、此内より新開場え為引移候人数、凡積六万三千人程、都合七万人程引連」ということであった。つまり、7万人余りの穢多(えた)、罪人らを蝦夷地に送りこみ開墾にあたらせる計画なのである。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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アイヌ騒乱で松前藩に協力した「イコトイ」=仏・ブザンソン美術館

【2009年3月4日付】
 

 

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