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  【 松平定信公伝TOP 】
【 外交と蘭学・アイヌ騒乱(5) 】
 
 海国相応の防備が重要

 北辺に関心が向かうさなか、林子平著『海国兵談』が寛政3(1791)年に出版された。江戸に生まれ、仙台藩に仕えた林子平は、長崎に赴いてロシア情報を入手し、江戸で桂川甫周、大槻玄沢らの蘭学者と交わった。

 『三国通覧図説』に「和蘭人ヘイト語テ日」とか、「和蘭人アヽレントウエルレヘイトニ逢フ」といった文章があるから、子平は商館長アーレント・ウィレム・フェイト(Arend Willem Feith)と出島で会い情報を得た。『海国兵談』にも

 安永乙未の年、小子崎陽ニ在て、多ク唐山和蘭陀ノ人ニ面接ス、其中和蘭人の御(ムマノリ)を善スルアレントウエルト、ヘイトてふ者に対話(ハナ)ス、彼が数説中、可取事ともあり

とある。

 フェイトはすでに4度来日し、5度目の来日は、安永4(1775)年8月であった。従って子平がフェイトと会ったのは、安永4年中でも8月以降である。もっとも吉雄幸作か名村八左衛門か、いずれかの阿蘭陀(オランダ)通詞が通弁し、子平を助けたことは間違いなかろう。

 子平はロシア南進に警戒し、北辺防備の観点から『三国通覧(つうらん)図説』や『海国兵談』を著した。『三国通覧図説』は蝦夷(えぞ)地調査のさなか、天明6(1786)年に出版された。

 子平によれば、ロシアはカムチャツカを経てエトロフまで南進したから、蝦夷地が併呑(へいどん)されないよう用心しなければならない。金銀銅の埋蔵される蝦夷地をはやく確保すべきであり、そのさいアイヌの教化をもって済度(さいど)策とし、アイヌを招諭し蝦夷地をわが領内とすべきである、という。

 三国とは朝鮮・琉球・蝦夷地で、これらの地域の地理、風土を解説するが、その中心は蝦夷地にあてている。しかし掲載された蝦夷図を見ると、カラフトとサハリンが同一でなく、カラフトは大陸の半島となっているなど精度に欠けた作図と分かる。

 子平は天明6年、『海国兵談』を脱稿したもののすぐ出版できず、天明2年に自ら描いた「和蘭陀図説」などを再版して知人に一枚銀三匁(もんめ)で売り、刻費に充てた。『海国兵談』の第1巻のみは天明8(1788)年に出され、全巻の出版は寛政3年であった。

 『海国兵談』によれば、江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路であるから、航海術に長けた西欧諸国は容易に来航でき、したがって四方皆海のわが国は、海国相応の防備が必要であるという。

 つまり海国とは、「地続の隣国無して四方皆海に沿ソヘル国」であり、「海国の武備ハ海辺にあり。海辺の兵法は水戦にあり。水戦の要は大銃(おおづつ)にあり、是海国自然の兵制也」とする。

 こう述べる第1巻の主張こそ、子平の本題であったろう。そこで子平は、蘭船の紹介、蘭船の建造、大砲の装備を説くのである。

 苦心惨憺(さんたん)の末に出版した『海国兵談』は、出版取締令に触れ、出版禁止となるばかりか板木も没収された。同時に、天明6年の『三国通覧図説』も絶版とされた。処罰の理由は、「奇怪異説等取交へ著述」したとか、「地理相異の絵図」を添えたとかであった。

 このとき子平が詠(えい)じたとされる歌に

 親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし

がある。すべてを失い絶望しつつも、死ぬこともできなかったのである。

 『海国兵談』は、定信にとって、民間人の勝手な議論の書であり、「猥成儀異説(みだりなるぎいせつ)」にみえたのであろう。これは蘭学への弾圧というより、処士横議(おうぎ)の処罰である。封建制の通則にてらし、幕府の政策に具体的な批判を加えた海防問題は、民間人が「漫(みだ)り」に論じるべきでなかった。

 寛政4(1792)年5月、子平は蟄居(ちっきょ)を命じられ、翌年6月病死した。子平の警告した蝦夷地や、とりわけ重視した江戸湾の防備は、寛政4年、突如来航したラクスマンにより具体的な問題として急上昇してくるのである。

(福島大名誉教授)

=おわり

磯崎 康彦

>>> 46 …完


松平定信が収集した西洋銅板画「メクレンブルグ馬」

【2009年3月25日付】
 

 

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