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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 “天鏡”の美に心奪われて 
 
 望郷の念で鎮座後押し


 さて、これまでの内容から、京都北野社と比良天満宮の両社の創建を果たした神良種は、須磨で偶然耳にしたご神詠(しんえい)に突き動かされて諸国を巡り歩き、会津の猪苗代湖まで来たとしよう。『小平潟天神縁起』では、「湖畔に足を休めていた良種が湖の景色に心奪われているうちに日が暮れて、立ち上がろうとすると背負っていたご神像が動かなくなり、道真公がこの猪苗代の地を気に入った」と伝えられていたのは、前述の通りである。

 つまり良種自身も猪苗代湖の美しさに心奪われたのだ。猪苗代湖畔という小平潟の風景が、良種の故郷である琵琶湖に似た風情であること、また須磨の浦と違って波が高くなく、天鏡湖という異名があるほど穏やかに澄み切った猪苗代湖と、小平潟から眺める磐梯山は殊のほか素晴らしく琵琶湖以上と言ってもいい程の眺望の見事さに、まず良種が気に入ったことは否定できないだろう。

 そして菅公がこの地に鎮座するご意志を察して、それを後押しするだけの積極的な働きかけを行ったのも、良種自身の意志に他ならない。

 もう一つ『小平潟天神縁起』の言い伝えを検証してみたい。猪苗代湖に突き出た洲崎となっている「小平潟」は、かつて「小出方」と呼ばれていたのが、摂津平潟をしのんで「小平潟こ(びらがた)」と改めたとある。

 『新編会津風土記』には、小平潟天満宮の来歴を「もとは村の東にあり、その神社跡に幹の梅が今でもある。昔摂津国枚方(ひらかた)より道真公の画像を持ってきて、ここに祀(まつ)ったという」と記されている。

 小平潟天満宮に秘蔵されていた御宝物の中に「綱敷天神像」と「渡唐天神像」の二種類の画像があるが、これらの画像は鎌倉時代以降各地に流布したものとされ、天満宮勧請(かんじょう)時よりかなり時代が隔たっている。

 『小平潟天神縁起』の「摂津平潟をしのんで小平潟と改めた」のは、『新編会津風土記』の「摂津国枚方より道真公の画像を持ってきて、ここに祀った」ことと関連があるように思われるが、この項目以外に枚方と小平潟天満宮との結びつきを示す記載は見当たらない。とすれば、天満宮勧請の年より200年以上を経て、「小出方」から「小平潟」へ改められたことになる。

 当然その間、天満宮は「小出方天満宮」と呼ばれていたと考えられるが、そのような呼び名は、どの文献にも見つけられない。

 200年以上も過ぎて画像がもたらされた地名をしのんでつけられた経緯より、小平潟天満宮が勧請された直後に、勧請にあたった人物の地名、つまり「比良宮」の「比良」から「平」へ文字が変化して「小平潟」へ改めたとは考えられないだろうか。

 良種の故郷である琵琶湖に、似た風情を持つ猪苗代湖に面した小平潟、この地以外にないと選んだのは道真公のご意志もさることながら、良種自身が望郷の念に突き動かされたからではないだろうか。

 良種は、北野天満宮創建に尽力したばかりでなく、小平潟に天満宮を勧請した中心人物でもある。それ故「小平潟天満宮」の来歴を語ることは、彼を語ることでもあるのだ。

 


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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”天鏡”の美に心奪われて
神良種が神官だった近江の比良神社ではないかと言われている白髭神社

【2009年6月17日付】
 

 

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