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 小平潟天神の行く末を願う 
 
 道真の「道」が長く続けと


 ところで明治39(1906)年発行の『大日本名蹟図誌』には、注目すべき記載がある。天暦元(947)年、須磨の浦までやって来て、「スマデノムコソニゴリサケナレ」と吟じたのに対して「コノウラハナミタカケレバウチコシテ」と応じられた道真公のご神詠に突き動かされて、この猪苗代湖畔にやって来たのは神良種ではなく、良種の子太郎丸と書かれているのである。そして翌天暦2年(948年)6月25日に天満宮を勧請(かんじょう)して、名を「神道長」と改めた、とも記されている。

 前述の『天満宮託宣記』では、天慶9(946)年に7歳の太郎丸を通じて天神のお告げがあったとされているので、天暦2年の小平潟(こびらがた)天満宮勧請は、その2年後ゆえ、太郎丸は9歳ということになる。

 9歳の太郎丸が1人で須磨に赴き、濁り酒を飲んで「スマデノムコソ…」と吟(ぎん)じるのも、ご神像を背負って諸国を旅し、遙々(はるばる)会津までやって来るというのも、恐らく無理があると思われる。

 しかし、この記述からは、菅原道真公の託宣を直接受けた人物が、この小平潟へやって来た可能性があり、その意味でも小平潟天満宮に道真公の御霊(みたま)がぐっと引き寄せられた感もあり、この地が神聖な霊地であることをますます物語るであろう。さらに、北野社創建への託宣を直接受けた太郎丸が小平潟天満宮を勧請したとなれば、北野天満宮と小平潟天満宮の結びつきは一層強まるはずである。

 次に、天暦2年、天満宮を勧請して、名を「神道長」と改めたという記述にも着目したい。小平潟天満宮勧請が太郎丸によってなされたとしたら、幼名「太郎丸」から自らを「道長」に改めたと考えられるが、果たして9歳の子どもがそこまでできるものだろうか。

 やはり小平潟天満宮を勧請したのは良種で、良種は自分自身か、わが子太郎丸に「道長」と名を改めたと考える方が妥当ではないかと思われる。

 良種については、良種の故郷でもある近江の、滋賀県大津市歴史博物館の学芸員の方は、「神良種は、比良宮の神官であったが、一方で豪農でもあったのではないか。良種という名前には神官であり、富豪百姓でもあることが込められているのかもしれない」と指摘してくださった。

 つまり良種は、名前というものにこだわった人物だったのではないかと考えられるのだ。

 それ故『大日本名蹟図誌』に記された「道長」への改名は、良種が付けたものとして考察を加えたい。

 猪苗代湖の美しさに魅せられて、小平潟天満宮勧請を果たした良種は、自分自身か息子太郎丸に「道長」と改名した。恐らく彼は、「菅原道真」の「道」を意識し、故郷の近江には帰らず、この小平潟の地に骨を埋める覚悟で小平潟天満宮の禰宜(ねぎ)として人生を全うしようと決意したのではないか。そして自分の子孫も代々この神職を受け継ぎ、小平潟天神社を守っていく「道」が「長く」続くようにとの願いをこめて、霊験あらたかな小平潟天神の行く末までの「道」をつけたのではないかと考えられる。

 なぜなら良種の子孫は代々この小平潟天満宮の神職を受け継ぎ、後に出てくる猪苗代兼載の母・加和里の碑を長享元(1487)年9月6日に村人と図って建てた神道明もこの神官であり、明治20年、小平潟天満宮の境内に兼載顕彰の記念碑を建てた神道寿もこの神社の神主であった。神氏はこのように代々名前の頭に「道」がつき、小平潟天満宮の神主として、20世紀の昭和の時代まで続いたからである。

 まさに良種がつけた「道」が「長く」続いたのである。

 以上のような推察が許されるならば、「小出方」から「小平潟」への改名も、この地に魅せられ、この小平潟に自分だけでなく、子孫までも脈々と骨を埋めさせたかった良種が、この地と自分との絆(きずな)を示す名前として、比良宮の「比良」を取り「平」に変化して「小平潟」になったと考えても十分うなずけるのではないだろうか。

 


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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小平潟天神の行く末を願う
神良種が勧請したとされる小平潟天満宮

【2009年6月24日付】
 

 

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