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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 宗祇との対立と追慕(上) 
 
 心敬の弟子として歩む


 宗祇(そうぎ)は、中世連歌を大成した人と言っても過言ではない。文亀2(1502)年、82歳で箱根に客死していることから、応永28(1421)年の誕生を知ることはできるが、出生地については定かではない。
 「近江」と「紀伊」の両説があるなかで、ここではとりわけ前者の「近江」説に着目したい。

 兼載の出自でも登場した景徐(けいじょ)周麟(しゅうりん)が、宗祇の肖像賛(肖像画に書き込む詩や文)に「身産江東地」(身は江東の地に産る)と注している。「江東」とは「湖東(琵琶湖の東)」のことで、兼載の出生地(これは確かとされる)小平潟(こびらかた)も猪苗代湖の東(湖東)に位置していることから、宗祇と兼載の両者と同時代に生きた一人の高僧による貴重な情報は、2人の奇縁を物語っている。

 文明7(1475)年、心敬(しんけい)が相模大山の麓(ふもと)で没した。前述の通り、この年に兼載(当時興俊(こうしゅん))は、宗祇から『源氏物語』の講釈を受けている。その後「宗春」と名乗っていることからも、両者の師弟関係は否定できない。

 しかし、宗春は文明18(1486)年に「兼載」と改名して、翌年には自作の連歌を選んで、禁裏(きんり)(宮中)に「百句連歌」を進献するという栄誉に浴している。

 ただ『猪苗代兼載年譜』によると、「心敬僧都の13回忌に仏名を頭に置く連歌百韻を賦して追善供養した」とあり、さらに翌長享2(1488)年には『心敬僧都庭訓』を著して、師心敬の学説を忠実に筆録し、追慕している。

 これらの事から、「兼載」への改名は、宗祇との一線を画し、やはり心敬の弟子として歩んで行こうとする決意の表れだったのではないだろうか。

 京での地位を次第に確かなものとして、兼載は延徳元(1489)年、38歳の若さで北野連歌会所奉行に任命される。そして当時の慣例から、北野会所奉行が同時に連歌の「宗匠(そうしょう)」となるのである。

 その後の活躍は著しく、翌年の延徳2(1490)年には西国へ下向し、太宰府へ詣で、さらに山口の大内政弘に『連歌延徳抄』を贈っている。明応元(1492)年、兼載41歳時には、『薄花桜』を著し、阿波の守護・慈雲院細川成之(しげゆき)に贈っている。

 そして明応3年には、二条家の堯孝(ぎょうこう)を受け継ぐ堯恵(ぎょうえ)から古今伝授を受けている。

 二条家とは、『新古今和歌集』の撰者の一人で、「小倉百人一首」を選んだとされる藤原定家(ていか)からその子為家(ためいえ)、そして為家から二条為氏(ためうじ)(二条派)・京極(きょうごく)為教(ためのり)(京極派)・冷泉(れいぜい)為相(ためすけ)(冷泉派)の三派に分かれた一つで、この二条為氏の子・二条為世(ためよ)の優れた門弟である頓阿(とんあ)・兼好(けんこう)・浄弁(じょうべん)・慶運(けいうん)の4人は当時「和歌四天王」と呼ばれた。

 古今伝授とは、この「和歌四天王」の一人、頓阿の流れを汲むもので、堯孝の直伝を受け継ぐことを誇る「堯恵流」と堯孝から受けた東常縁(とうのつねより)が宗祇に授けた「宗祇流」に二分される。 「堯恵流」は天台教説を背景としており、卜部(うらべ)神道(しんとう)を背景とする「宗祇流」とは思想的関係において対立していた。

 これらの点から、兼載が堯恵から古今伝授を受けたということは、「堯恵流」を受け継いだことになり、さらに天台宗を背景とした師心敬(比叡山横川で修行)と直結するもので、同時に宗祇とは対立する関係となる。


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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宗祇との対立と追慕(上)
北野連歌会所は現在その井戸跡だけが残っており、毎月25日の連歌会に、この水を用いたと言われている

【2009年8月5日付】
 

 

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