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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 母亡き故郷へ 
 
 生新自由な新境地開く


 兼載は、永正二(1505)年頃(ころ)から会津に帰郷し、相当期間滞在していたようである。金子金治郎氏著の『連歌師兼載伝考』には、兼載晩年の「園塵第四」の中から、会津地方に関係のある発句が一括して記されている。

 会津守護葦名(あしな)家やその重臣の富田家、佐瀬家、そして自在院脇の諏訪神社や出生地猪苗代での作品もある。久方ぶりに訪れた故郷は、会津が生んだ偉大な文学者として、手厚く兼載を迎え入れたに違いない。

 その中で、とりわけ小平潟(こびらがた)天満宮で詠んだ発句を取り上げたい。
 猪苗代天神法楽久敏興行に

 「さみたれに松遠ざか
る洲崎かな」

 兼載出生の地小平潟、かつて母はこの天神に祈願して兼載を産んだと言う伝説さえ残る、小平潟天満宮に、この句は現在、社前の句碑に刻まれている。猪苗代湖に突き出た洲崎、それが「小出方」から「小平潟」に改められた経緯は前に述べたが、小平潟村の古老談話によると、かつてこの洲崎を前にした天神社は、広い湾景を一望して、社前の「幹の梅」のほとりには、湖の波がひたひた寄せていたと言う。

 小平潟天満宮の社前に立ってこの句を詠んだ時も、兼載の眼前には当然湖があった。しかし、この日は雨で、「松遠ざかる」ほどの見晴らしを遮(さえぎ)った五月雨であった。従って、白く煙った雨のために山や湖は見渡せず、身近な洲崎の方が兼載の目を惹(ひ)いたのであろう。周囲の景勝がしめやかに雨に包まれている中で、湖へ遠く深くいざなう洲崎を詠み上げることで、幽玄の句境を醸し出している。

 『猪苗代兼載年譜』には、長享元(1487)年「9月6日、兼載誕生の地小平潟に母加和里の碑を、神道明村民と謀って建てた」という記載があり、兼載36歳のこの年には、前述の通り宮中に「百句連歌」を献じて、2年後の「宗匠」への足掛かりをつかんでおり、こうした栄誉に浴した兼載が母の訃報(ふほう)に接し、書状を送りつけて小平潟天満宮の神主であった神道明に、母加和里の碑設立を依頼したと想像しても奇異ではないだろう。

 母亡き今、ふる里に帰り、幼少時に幾度も眺めた景色を思い起こしながら、限りなく続く思い出へと広がるきっかけとして、眼前の洲崎を詠んだとすれば、母が熱心に祈願したこの天神を幼い兼載(梅)も幾度も拝み、この景色を愛し、恐らくは複雑な出生のために、わずか6歳でこの地を離れることを余儀なくされた往昔をふり返って、万感の想(おも)いがこみあげてきたのだろう。この発句を詠んだ時、彼の頬(ほお)が濡(ぬ)れていたとしたら、雨のせいだけではなかったのではないか。

 さて、兼載が故郷で詠んだ句を続けよう。

 東明寺にて

 花もみぢ夏こそ盛り

 庭の松

 この句は現在、会津若松市の東明寺門前の碑に刻まれている。「花もみぢ」とは春の花、秋の紅葉というような春秋の自然の美しさを意味するが、この句ではそうした従来の美意識を覆して、夏こそ自然が最も美しいと兼載は歌うのだ。遅い春を迎える会津、初夏の5月は百花繚乱(りょうらん)に大地が彩られる。東明寺の広大な庭に緑を変えない松樹を背景として、色とりどりに咲き乱れる草花が兼載の目に焼き付いたのだろう。

 このようにこれまでの概念を打ち破って生新自由な空気を連歌に吸入し、詩境の深さを伴った新見地を開いていったのである。

 兼載の歌の特色は、こうした豊かな叙情と写実味、明晰(めいせき)な付合い等があげられ、新鮮な写生の句や鋭く心情をえぐるものなどあり、英才を示す洗練された作品が少なくない。また、緊張感を伴った斬新な表現も彼の魅力であり、次の句などがその代表であろう。

 花ぞ散かからんとての

 色香かな

 『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』に入集されたこの句は、同集中「第一の発句なりとの勅定ありし」とされた名句であると、『兼載雑談』に述べられているが、兼載が6歳で引き取られたとされる自在院の門前入り口の句碑に刻まれている。会津に今も残る兼載句碑の3つ目である。


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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母亡き故郷へ
古里での万感の思いを連歌に詠んだ小平潟天神鳥居わきの兼載句碑

【2009年9月2日付】
 

 

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