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故郷思わせる結庵の地
ところで、小平潟(こびらかた)村の故佐藤愛二氏の記した『小平潟天満宮』には、「葦名あしな兼載六歳の時、若松自在院に出家の折、自ら松を植えたこと」が載っており、その松は後に「兼載松」と呼ばれている。
また、上野白浜子(はくひんし)氏の『猪苗代兼載』には、里人が兼載のために植えた記念樹を「兼載六歳松」と名付けたと書かれている。
一方で、松を植えたのは兼載自身でも里人でもなく、兼載の母が小平潟天神社の神域に松樹を植えて、兼載の将来を祈願したという説もある。
いずれにしても、兼載が六歳の時、会津黒川(会津若松市)の自在院に引き取られ、剃髪(ていはつ)して僧となり、その機に松樹を植えたことは、ほぼ確実であったと見られる。
さて、出自でも述べたように、複雑な出生がそうさせたのかは分からないが、6歳までしかいなかった生まれ故郷(小平潟)での生活が、彼の記憶の隅に焼き付いていたものと思われる。
それというのも、兼載が庵(いおり)を結んだとされる場所には、故郷(小平潟)を彷彿(ほうふつ)とさせるものが登場して来るのだ。前にも述べた、いわき市に現在も残された「兼載天神」がまず、その一つになる。
そして「兼載松」。晩年の兼載は、いわきでの結庵後、下野国のあちらこちらを慌ただしく行き来しているが、那須郡葦野(あしの)には、兼載が庵を結んだとされているところがある。
葦野は、かつて兼載が48歳の明応8(1499)年6月18日、葦野大和守資興(すけおき)から招かれ、葦野一万句の張行を催したところでもある。戦乱がなく比較的政情の安定していた葦野の城主資興からの招きもあり、永正2(1505)年頃(ころ)から兼載は那須郡葦野に庵を結んだと思われる。永正2年は兼載五十四の齢(よわい)を迎えた年で、彼が亡くなる五年前にあたるのである。
それでは、葦野のどこに兼載は庵を結んだのか。
江戸時代の紀行文『元禄行嚢抄』には「葦野駅に、遊行柳と並んで鏡山という山がある。その山の上に兼載松と称される名木があって、猪苗代兼載ゆかりのものであろう」と書かれてあり、かつて兼載が鏡山に庵を結んで、側に松を植えていたらしい記載がある。
また、葦野氏家臣・小林準作撰文の『愛宕山重修碑』には、「昔、連歌宗匠、猪苗代兼載は暫しばらく東の麓(ふもと)に居を定め、素晴らしい景色を歌に詠んだ」と記され、兼載は愛宕山の麓に庵を結んだと言うのである。
このように葦野で兼載が庵を結んだ場所は「鏡山」と「愛宕山」の二説に分かれているのだが、兼載を招いて葦野に住まわせた葦野城主資興のお城について、蓮実長氏著『那須郡誌』には、「葦野資興が構えたとされる桜ケ城は御殿山とも呼ばれている山城で、現在も桜の名所となっている」と記されている。
その桜ケ城から北西手前の小高い山が「愛宕山」で、「愛宕山」から北側の遊行柳近くの山が「鏡山」である。資興が構えた桜ケ城からは「愛宕山」の方がすぐ近くに見下ろせる場所に位置しているが、「鏡山」説には前述したように「兼載松」が登場していて、どちらの説も安易に退けるのは難しい。
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戸田 純子
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晩年の兼載が庵を結んだとされる那須町芦野愛宕山麓 |
【2009年9月9日付】
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