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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 「兼載松」(下) 
 
 小平潟天神こそが原点


 兼載が葦野(あしの)のどこで庵(いおり)を結んだかについて、「鏡山」と「愛宕(あたご)山」の二説がある中、地元葦野では「愛宕山」に庵を結んだという説の方が有力視されている。

 それというのも、「愛宕山」のふもと辺りの一帯に、「兼載松」という地名が、現在もなお残っているのである。

 江戸時代の旅の見聞を記した紀行文である『元禄行嚢抄』の「鏡山・兼載松」より、地元の人が「愛宕山」のふもとに名付けた「兼載松」という地名の方が信憑(しんぴょう)性があると思われるし、この「兼載松」という地名が今もなお使われていることにも、この地における兼載の存在の大きさを感じないわけにはいかないからだ。

 さらに「愛宕山」は葦野の城・桜ケ城(御殿山)から城下町を見下ろすと、すぐ目の前に見える場所に位置しており、「葦野八景」に選ばれた景勝の地でもある。

 そして江戸時代、松尾芭蕉に従って『奥の細道』を旅した、河合曾良による『曾良随行日記』にも注目したい。元禄2(1689)年4月20日の記述には次のようにある。

 葦野より白坂(白河市内)へ三里八丁。葦野町はずれ、木戸の外、茶屋松本市兵衛前より左の方へ曲がり、温泉神社の相殿八幡宮の大門通りの内(十町程過ぎて左の方に鏡山有り)左の方に遊行柳有り。その西の四、五丁之内に愛宕有り。その社の東の方、畑岸に兼載の松というのがある。兼載の庵跡という。

 曾良が書き記した内容は、まぎれもなく「愛宕山」のふもとに兼載が庵を結んだ跡として「兼載松」の存在を伝えているのだ。

 恐らくこの時、松尾芭蕉も曾良と一緒に、愛宕山のふもとの畑にただずみ、「兼載松」を眺めながら、宗祇と並び称された猪苗代兼載の偉業を偲しのんでいたにちがいない。

 以上から、兼載が葦野の愛宕山のふもとに庵を結んだのは、ほぼ間違いないであろう。

 年齢を重ねるごとに、幼い頃(ころ)の思い出は次第に芳香を放つ。ここに庵を結んだ兼載は松樹を植えて、故郷を後にした往時を追想していたのではないか。小平潟天神社の神域に植えたとされる「兼載松」は、小平潟の古老の談話では、大戦中に枯れてしまったと言われているが、晩年庵を結んだとされる葦野の里に、地名として今もなお残されていることに、兼載の深い余徳を感じないわけにはいかない。

 連歌界の頭領として「宗匠」にのぼりつめた兼載は、晩年庵を結んだ岩城において、小平潟(こびらかた)天満宮の分霊をまつり「兼載天神」として常々拝んでいた。さらに小平潟天神社の神域に植えたとされる「兼載松」を葦野の里にも再現している。

 これらの事から、兼載にとって、小平潟天神こそ彼の原点だったのではないだろうか。

 北野社創建の翌年に小平潟天満宮が勧請(かんじょう)されたという伝承が、現在まで伝えられている以上、兼載が生きていた中世においても、彼の耳に入っていたとしてもおかしくないと思われる。

 兼載が北野会所奉行となり、連歌界の最高の地位にのぼりつめたという経緯は、北野社創建にまつわる神良種が勧請した、小平潟天満宮の申し子とされ、「天神の梅」と呼ばれた兼載にとって、初めから用意された運命のように俯瞰(ふかん)されてしまう。


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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葦野の地図に、地名として今も残る兼載の名

【2009年9月16日付】
 

 

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