minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 会津の天才連歌師TOP 】
 花の下にて 
 
 死してもなお桜愛でる


 春が来ると、日本人は何よりも桜の花を愛(め)でる。これは21世紀になった現代でも変わらない。天気予報でも桜の開花予想が発表され、旅行会社は全国各地の桜の名所へのツアーを企画し、若者はさくらをテーマにした流行歌を口ずさんでいる。平安時代より、花といえば桜を意味していた。

 「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と在原業平(ありわらのなりひら)が詠じたように、今も昔も桜は日本人の美意識を惹(ひ)きつけてやまない。

 中世になると、貴族だけでなく、地下(じげ)と呼ばれるような名もなき庶民たちが、爛漫(らんまん)たる桜の花の下で寄り合って興を尽くした連歌(れんが)が多く詠まれ、花の下の寄合文芸として、連歌が普及していく。花の下の連歌は、桜の花の下での風雅な遊びであり、その桜はいずれも「枝垂(しだ)れ桜」であったらしい。

 猪苗代兼載も桜に魅せられた一人であった。前述したように、兼載が屋敷の周りに桜を好んで植えたことから「桜町」と名付けられたという古河市桜町の由来がそれを示している。

 また「兼載松」で述べたが、兼載が古河へ移る前に庵(いおり)を結んだとされる那須郡葦野(あしの)の愛宕山は、葦野八景に選ばれた景勝の地であり、すぐ目の前に葦野城主資興(すけおき)が構えた「桜ケ城」を眺められる場所に位置している。

 この「桜ケ城」は山城であったが、その城跡は現在でも桜の名所となっているのだ。庵に松を植えて幼い往時を回想していた兼載は、春の日、見事に開花した「桜ケ城」の桜を遠望しながら、その美しさを堪能していたに違いない。

 さて、永正7(1510)年6月6日に、亡くなった兼載の亡骸(なきがら)は、満福寺に納められ、その遺言により墓の印に桜の木を植えたと言われる。

 この満福寺は、現在栃木県下都賀郡野木町野渡にある西光山満福寺を指す。栃木県と言っても、渡良瀬川を境にして埼玉県と茨城県の三県が隣接したところにあるため、古河市の近くにあるお寺なのだ。

 『古河志』には、「満福寺に、連歌師兼載の墳、桜一株あり。匂桜(においざくら)と云う」と記されている。

 江戸時代の古河藩主土井利和(としかず)(後に利厚(としあつ))は兼載の墳の前で次のように和歌を詠んだ。

 野渡のさとの古寺に兼載法師のうへ侍りける桜の朽木をみて 利和
 「植へをきし 心の花や 桜木の 思いは朽ちぬ いにしへの春」

 この和歌の詞書(ことばがき)にあるように、兼載の遺言によって植えられた桜は、江戸時代の土井利和が訪れた時はかなり朽ちていたようである。

 しかし和歌では「桜を愛する兼載の思いは何年経っても朽ちることはない」と兼載を偲(しの)んでいる。

 これらのことから、満福寺の兼載の墓には桜が植えられたことは間違いないと思われる。

 生前は、葦野の庵で「桜ケ城」の桜を、そして古河でも住居のまわりにたくさんの桜を植えてその開花を心待ちにした兼載は、死してもなお、花の下にて桜を愛でていたのである。

 満福寺には、兼載の墓と古河公方足利成氏(しげうじ)墓所がある。「西光山」という名の通り、この2人の偉人のお墓からは夕陽が見え、冬には富士山も見渡せると言う。渡良瀬川のすぐ側にあるこのお寺は強風を避けるため、かつては竹林に覆われていたが、2年前に竹はすべて撤去され、兼載の墓は現在、広くて明るい空間の中に建っている。お墓に植えられたと言う桜はもうなくなってしまった。『古河志』には「匂桜」と記され、『下野国誌』には「兼載桜」と称されている。

 中世において、花の下の寄合文芸として急速に発展していった「連歌」の絶頂期に、連歌界の頭領となり、様々(さまざま)の偉業を残しながら、惜しまれつつ亡くなった兼載は、生前桜を愛で、その死後も花の下にて安らかに眠り、桜の樹木が朽ち果てなくなった今も、「兼載桜」という名称の中に、桜と共に在り続けているのである。


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

>>> 18


花の下にて
栃木県野木町満福寺の兼載墓

【2009年9月30日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN