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 母との深い絆 
 
 偉大な業績 天神の霊験


 兼載の母について、上野白浜子氏の『猪苗代兼載』には、

 加和里(かわり)の命日は9月6日で、小平潟(こびらかた)村の年中行事の「虫送り」は加和里の命日陰暦9月6日に行っていた。村の女達は、加和里の墓に集まって慰安の日とした。この行事は明治の時代までも続いた。

と書かれており、加和里は地方の人々に長年の間敬愛され、親しまれる存在であった。

 恐らく、兼載を自在院へ出して後、息子の出世を一途に小平潟天神へ祈願していた加和里の姿は、死してもなお、村人の脳裏に焼きついていたのだろう。

 金子金治郎氏は、昭和48(1973)年の会津若松市における「会津が生んだ中世の連歌師猪苗代兼載について」という講話で、兼載の母の死に関して、きわめて興味深い考察を加えている。

 ながらへてかひなき身をもたらちめのあととふけふぞ

 思ひなぐさむ

 これは『閑塵集』(兼載私家集)の中に、33回忌の歌としてあるものです。中世の歌人たちの歌集・句集を通じても、お母さんの事に触れたというのは少ないです。明応9年に大火に遭い、兼載は住居を失っている。それ以来どこに住んでいたか分からなかったが、この33回忌によめる歌の何か悲観的な物言いといい、明応9年京都の大火で草庵を焼失し、住居もなく苦しい生活と何か関連がありはしないかと思われるのです。

 仮にこれを文亀元年(明応9年の翌年)あたりに置くと、お母さんの死は文明元(1469)年になるわけです。もし、そうしますと兼載は18歳ということになる。18歳で母を亡くした彼が、郷里で何もすることがないような気落ちから思い切って文学の道へ入って行く、そういう風な筋道がちょっと読めるような感じがします。

 金子氏のこの講話は、兼載の母の亡くなった年を指摘したばかりでなく、兼載にとって母の存在がいかに大きいものであったかを物語るものとして画期的な考察と見ることができる。

 この歌を詠んだ時、50歳に達した兼載が前年の大火で住居を失うという不運に見舞われ、生きながらえている我わが身を不甲斐(ふがい)ないと嘆き、母の33回忌の今日、追善供養をして、その優しい面影に、辛(つら)い我が身が慰められようとしているのである。

 このようなことからも、兼載と母加和里との深い絆(きずな)がドラマチックに展開され、野口英世と母シカとの絆に重なるほど固いものだったと思われる。

 野口英世も猪苗代兼載も、父より母の存在の方が大きく、後世にも両者の母は、母の鑑(かがみ)としていつまでも語り継がれている。また、両者とも手を損傷し、その痛手をばねに奮起して時代を昇りつめ、大成していった。

 そして小平潟村にかかわり、血縁関係さえも有り得る。

 これらを見ても、猪苗代兼載と野口英世は、幾世紀も隔たっているとはいえ、不思議なほど重なってしまう。

 「兼載の生まれ変わり」と呼ばれた英世の、父佐代助が、かつて「天神の申し子」とされた兼載の血筋で、息子の出世を小平潟天神に拝んでいたことからも、猪苗代が生んだ2人の偉大な業績は、詩歌・学問の神様である天神の霊験としてとらえてもよいのではないだろうか。

会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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母との深い絆
小平潟に立つ、野口英世の父・佐代助実家跡の案内板

【2009年10月21日付】
 

 

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