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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 ゆかりの地を訪ねて 
 
 「天神」に導かれた“旅”


 上野白浜子(はくひんし)氏の研究は、「兼載年譜」だけにとどまらなかった。『兼載故郷へ帰る』は、晩年の故郷での兼載の足跡とそこで詠まれた句を紹介しながら、兼載の人間像に迫っている、大変優れた研究書である。私の兼載研究も故郷が語るものは、上野氏の偉業に負うところが大きい。

 故郷での「兼載伝」を調べていくにつれて、兼載が「天神の梅」と呼ばれ、小平潟(こびらかた)天満宮の申し子とされたことについて、連歌の神とされた「天神」について、そのルーツを探りたいと思い始めた。これは小平潟天満宮を勧請(かんじょう)した「神良種」という人物が『北野天神縁起』にも登場していることを知ったからでもあった。

 良種の故郷、滋賀県の比良へ行ってみると、「神良種」なる人物は、やはり「比良神社」の禰宜(ねぎ)とされ、『北野天神縁起』の太郎丸託宣(たくせん)に登場する人と伝えられてはいるが、小平潟天満宮を勧請したことについては、全く知られていなかったのである。

 これは恐らく良種が、小平潟天満宮を勧請した後、故郷の琵琶湖には帰らず、猪苗代湖畔に根を下ろしたからではないだろうか。

 地元の「大津市歴史博物館」の学芸員の方に「比良宮」を尋ねると、「北比良神社」と「白鬚(しらひげ)神社」の両説を聞かされ、現地へ赴くことで、自分なりの見解を得ることができた。そして、その地方には地方なりの伝承が残されているが、それをその地方だけのものにとどめずに、「神良種」という一人の人物を通して、横につなげれば、過去の歴史がより重層的な意義を持ちより多くの人々が歴史的認識を新たにできるのではないかと考えたのである。

 那須郡那須町芦野にある「那須歴史探訪館」では、館長の斎藤宏壽氏等らが、愛宕山麓(さんろく)と鏡山まで案内して下さり、両説の根拠となる資料を提供してくださった。そして、「兼載松」という地名が今もなお残っていると知らされた時は、江戸時代の芭蕉も訪れたとされるこの地に、中世の連歌師兼載が大切に記憶されていたという事実に感激さえした。

 さらに、「兼載天神」との出合いは何か運命のようなものを感じたほどであった。

 「書物に記された『城西寺』は、今は廃寺となっていますから、『兼載天神』は恐らくもうないと思いますよ」と、いわき市の学芸員の方に電話で告げられた時は、いわき行きをあきらめかけたのだが、とにかく行ってみようと決めて、いわき市内を歩き、あてもなくふらっと石段を上って荘厳な神社を拝んだら、その境内に「兼載天神」を見つけたのだ。あの時は私自身も神のお導きを感じたほどだった。

 「子鍬倉(こくわくら)神社」の、その神主の方に来歴を見せて頂(いただ)き、「兼載天神」が「小平潟天満宮」の分霊を祀(まつ)ったという記載を読んでから、兼載がいかに「小平潟天神」を信心していたかを確信し、兼載をぐっと身近に引き寄せた感動を覚えた。

 兼載の偉功は、茨城県古河市にも残されていた。晩年の兼載は中風を患い、名医田代三喜の治療を受けるために古河に滞在し、図らずもその地で没してしまうのだが、兼載が居を構え、その屋敷のまわりにたくさんの桜を植えたことから「桜町」と名付けらた地名がある。「古河歴史博物館」の平井良直氏によるご尽力のおかげで「桜町」への調査も実り多いものとなった。

 各地で出会った方々とは、その後も折にふれて情報を頂いたりしている。これも兼載が取り持つ縁だと感謝している。

会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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境内に兼載天神を祀る子鍬倉神社

【2009年11月11日付】
 

 

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