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未来へ続く偉人の足跡
猪苗代兼載の偉功は、故郷会津やいわき、那須町芦野、そして古河の地などに現在も残されている。しかし、知る人ぞ知るという具合に、一般の人々には殆(ほとん)ど知られていないのが実情である。
その実情を打破してくれそうな朗報が、野口英世との関係であった。これまで兼載の「一指憤(いっしふん)」が、英世が手を火傷(やけど)した事と重なる悲運だったり、母親が共に信心深いという点で、二人の偉人の不思議な共通点を上野白浜(はくひん)子し氏も指摘していたが、北篤氏の『正伝野口英世』と小桧山六郎氏の『野口英世を育てた人々』の両書に、野口英世の父佐代助の実家小桧山家は猪苗代兼載の血筋だという事が記されており、さらに佐代助が英世の出世を小平潟(こびらかた)天神に祈願していた事も述べられていた。
現在も会津でご活躍の、この両先達による画期的な記述により、野口英世のルーツとして猪苗代兼載を捉(とら)えることができたのである。
野口英世は、日本人はもとより、世界的にも名を馳はせた偉人であり、猪苗代が生んだ医聖である。英世から兼載へとつなぐものは、父佐代助の生まれた小平潟であり、天満宮なのだ。
私はますますこの故郷小平潟の地に霊的なものを感じ、今は朽ちて横たわりかけている「幹の梅」の前で、旧小平潟天満宮を偲(しの)んで手を合わせた。春ともなれば花を咲かせ、葉を茂らせ、年によっては実を成らせるというこの梅の木は、現在も生き続けているのだ。
この神木もいつかは朽ち果ててなくなってしまうだろう。しかし、ここでかつて保科正之公が和歌を詠んだことや、さらに遡(さかのぼ)って兼載の母加和里(かわり)が幾度も祈願に訪れたこと、そして兼載もここで手を合わせていたことを、私たちは忘れてはならない。
野口英世を通して兼載を知る人が、これからますます増えていくことを念願してやまない。
猪苗代兼載の原点ともなる故郷の地、小平潟村と小平潟天満宮のルーツやそれにまつわる人々、そして兼載ゆかりの名所を調べていくにつれて、それぞれの地でとてもいい出会いがあり、これまでの研究の大きな支えとなっていただいた。これは500年前に日本一を極めた文学者の偉業を、広く世に知らしめたいという想(おも)いでつながった絆(きずな)だといえる。
野口英世と猪苗代兼載という故郷の偉人の足跡を追えば追うほど、もっと高くもっと大きくと奮い立つようにそびえる磐梯山や、不運がもたらす憂き目さえも静かに飲み込んでくれる青い湖など、自然が人間に与えた力の偉大さにあらためて驚かされる。
今も変わらぬ猪苗代の自然を愛(め)でながら思うことは、かつてこの地に生まれ、この地を愛した偉人たちが、今まで以上に注目されてしかるべきだということ。「温故知新」が示す通り、これまでの長い歴史が、今在る私たちの足元をしっかりと見極め、これからをも照らして未来を切り開いていくに違いない。
500年にわたり、多くの人々が兼載を慕い、兼載を称(たた)え、そして兼載を伝えてきた。それを確かに受け継いで、次世代へバトンを渡さなければならないと切に願うのである。
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戸田 純子
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今もなお旧小平潟天満宮跡に残る神木「幹の梅」 |
【2009年11月18日付】
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