回想の戦後70年 歌謡編−(3)高校三年生

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歌謡編−(3)高校三年生

舟木一夫さんのレコードを前に高校時代を振り返る清水達子さん

 東京五輪が約3カ月後に迫った1964(昭和39)年夏。郡山市内の女子高に通う達子さんは16歳。1年前にデビューした20歳の男性歌手に夢中だった。

 初めはファンではなかったが、仲の良いクラスメートと話すうち、その魅力に引き込まれた。「ひたむきに頑張るところがすてき」。後援会(今のファンクラブ)にも入会した。

 そして、いよいよ歌謡ショーの日が来た。達子さんはクラスメートと2人で船引町(現田村市船引町)へ出掛けた。

 会場がどこだったのか覚えていない。スターと会える興奮で舞い上がっていた。覚えているのは、学校の体育館で、床に筵(むしろ)と座布団を敷いて座ったこと。周りは、お年寄りから子どもまで多くの人であふれていた。地方にスターが来るなんてめったになかった時代だ。

 そして、あの「舟木一夫」が現れた。トレードマークの、詰め襟の学生服で。

 「生でスターを見ると、その世界に入っちゃいますよね。ただただ『きゃーっ』と歓声を上げていたんでしょう」。磐梯熱海温泉「湯のやど楽山」の女将(おかみ)清水(旧姓・池田)達子さん(67)は「思わず16歳に戻ってしまう」と目を細めた。

 アイドルという言葉がなかった時代、舟木一夫さんは間違いなくアイドル、青春スターだった。「高校三年生」は大ヒットし、「青春歌謡」の代表曲となった。詞は小野町出身の作詞家丘灯至夫(としお)が書いた。

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 60年代前半、若者の夢と希望を歌った青春歌謡が数多く世に出て大流行した。

 「新版 日本流行歌史 下」(古茂田信男ほか著)によると、60年代の大衆音楽の特徴は、若い世代の好みが大きく影響するようになったことだった。

 背景には第1次ベビーブーム世代の成長がある。出生数800万人余の団塊の世代が若者となった。同時に、池田内閣が60年に決定した長期経済計画、いわゆる「所得倍増計画」を追い風に高度経済成長が加速した。

 国内のレコード売り上げは、68年には1億2千万枚に上り、米国に次いで世界2位。その6割以上を、若者が購買層の中心となる歌謡曲が占めた。

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 数ある青春歌謡のなかで「高校三年生」の人気は群を抜いた。魅力の一端は丘灯至夫の詞にあったようだ。

 丘の妻ノブヨさん(82)=千葉県柏市=は「『高校三年生』は、夫にとって特別な創作のモチーフだった」と明かす。

 48年ごろ、丘は「毎日グラフ」の記者として東京・世田谷の定時制高校を訪れ、男子と女子が手をつなぎフォークダンスを踊る様子を取材した。

 「男女7歳にして席を同じゅうせず」が常識だった時代が終わって数年。男女が同じ教室で学ぶ「新時代」の情景に刺激されて書いた詞が「高校三年生」だった。だが、舟木さんの歌とは全く別物。レコーディングされることもなかった。それでも、丘はモチーフを温め続けた。

 丘は幼少時から病弱で、20代の大半が戦争の時代だった。

 「修学旅行にも行けなかった。海軍に召集されたが、病気で出撃できず、乗るはずだった船は撃沈された。そんな人だからこそ、男女がフォークダンスを踊るような青春時代の情景に人一倍あこがれた」とノブヨさん。

 そして「男も女も平等に謳歌(おうか)する青春を描いた。だから『高校三年生』は多くの人に支持された」と言う。確かに丘の詞は「ぼくら」を「私たち」に置き換えてもほとんど自然だ。

 達子さんは、高校の修学旅行で、もちろん「高校三年生」を歌ったと言う。当時、ベビーブーム世代の教室は1クラス50人以上。「そのたくさんいるクラスメートが一緒に口ずさめた。歌詞に、難しい言葉はなく、私たちの日常を歌っていたし」。達子さんは今も舟木さんの公演へ駆け付ける。胸に響いたあの曲を同世代と一緒に歌う時間が最高なのだと言う。

 高校三年生 1963年6月、日本コロムビアから発売された舟木一夫さん(1944〜)のデビュー曲。作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実(1932〜2008)。63年の年末までに100万枚を売り上げ、この曲で同年、舟木さんは紅白歌合戦に初出場、日本レコード大賞新人賞を受賞。青春歌謡の流行は62年の「いつでも夢を」で始まり「高校三年生」で最高潮に達したといわれる。