回想の戦後70年 歌謡編−(5)みだれ髪

 
歌謡編−(5)みだれ髪

名曲「みだれ髪」の舞台となった塩屋埼。美空ひばりの戦後の生きざまと歌声は、今も訪れる人の胸の奥に息づき、励まし続けている

 戦後の混乱期、美空ひばりという一人の少女の歌が国民を勇気づけた。国民的歌手として華やかなステージで歌い、銀幕のスターとしても活躍する姿に女性たちはあこがれた。時代が復興期から高度経済成長期、安定成長期と移り変わっても、ひばりはスターであり続け、女性たちに希望を与えた。

 激動の昭和を駆け抜けた歌謡界の女王は1987(昭和62)年、大病を患い、長期入院生活を余儀なくされた。しかし不死鳥のごとく、劇的な復活を遂げる。一つの名曲とともに再び、ファンの前でステージに立った。いわき市の塩屋埼灯台を舞台にした「みだれ髪」。昭和の女性の一途(いちず)な思いをつづった名曲は多くの女性、国民の心をつかんだ。

 塩屋埼のふもとに、歌碑やひばりの遺影碑が立つ「雲雀乃苑(ひばりのその)」が広がる。「ひばりさん、ここでゆっくり羽を休めて」という願いが公園の名前の由来となった。今も県内外から多くの人が訪れ、花を手向けていく。

 その中には、潮風を感じながら波音とともに流れる「みだれ髪」を口ずさみ、それぞれの人生を振り返る姿もある。戦後の日本には、ひばりの歌に励まされ、懸命に生きた多くの人たちの姿があった。

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 2014(平成26)年3月、歌碑近くにソーラー発電街路灯が設置された。訪れた人々は夜でも、違った雰囲気の雲雀乃苑を楽しめるようになった。街路灯を寄贈したのは同市鹿島町、丸長建設工業社長の古長徳子さん(70)。「ひばりさんは歌もおしゃれも、私たちのあこがれだった。友達がいわきに来た時は必ず連れて行くすてきな場所なのに、街路灯がなくて夜には見ることができず、心残りだった」。古長さんもまた、人生の節目で、ひばりの歌に励まされてきた一人だ。

 古長さんは宮城県石巻市生まれ。故郷から遠く離れたいわき市には縁もゆかりもなかった。20歳の時、石巻市で大手ゼネコン会社に勤務していた大分県出身の夫の嘉明さん(故人)と結婚した。

 夫の転勤でいわき市に居を構えたのは69年。77年に夫が独立して建設会社を創設し、自分自身も専務として会社を支えた。夫婦二人三脚、昼夜問わず無我夢中で働いた。「仕事に加え、3人の息子の子育てもあり、あっという間に時間が過ぎた」

 夫婦の努力が実を結び、会社経営は順調だった。子育ても一段落し、夫婦で旅行を楽しむなど、ようやくゆとりが出てきた。不幸に襲われたのは、そんな時だった。98年、最愛の嘉明さんが病に倒れ、56歳の若さでこの世を去る。古長さんはこの時、美空ひばりが亡くなった年齢と同じ52歳だった。

 「泣いてる暇なんかなかった。従業員と家族のことを考えたら、会社を存続するしかなかった」。嘉明さんから社長の重責を引き継ぎ、会社の命運を一身に背負って、再び無我夢中で走り出した。「ひばりさんもそうだけど、歌が本当に心を癒やし、励ましてくれた。頑張れってね」

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 社長になって17年が過ぎた。つらい時、悲しい時に支えてくれた歌への感謝の思いが、街路灯の寄贈を思い立たせる理由になった。"聖地"に明かりをともしたのをきっかけに、ひばりの長男で「ひばりプロダクション」社長の加藤和也さん(43)とも親交ができた。今年6月の慰霊祭の際には一緒に食事をし、ひばりへの思いを語り合った。今は都内のひばりの自宅を訪れる日を楽しみにしている。

 「ひとりぼっちに/しないでおくれ」。「みだれ髪」は切ない女心をつづったこの言葉で終わる。夫に先立たれた古長さんにとって、何よりも心に響く一節だ。

 「自分が死んでもあなただったら社長ができる」。亡き夫が生前に言ってくれた言葉もまた、忘れずにいる。「頑張れば何とかなるさ。いくつになっても自分の足で歩いて行きたい」。ひばりとともに時代を生きた女性は、これからもかれんに、強く生きていく。

 みだれ髪 1987(昭和62)年12月にコロムビアから発売された美空ひばり晩年の代表曲。作詞は「三百六十五歩のマーチ」などを世に送り出した星野哲郎(1925〜2010年)、作曲は「王将」などを手掛けた船村徹(1932年〜)が担当。大病後のひばりの復帰作として制作された。歌の舞台はいわき市平薄磯地区に立つ塩屋埼灯台で、全国的なヒットを受けて歌碑が建立されたが、完成翌年の89年6月、ひばりは亡くなり、本人が歌碑を目にすることはかなわなかった。