回想の戦後70年 歌謡編−(7)リンゴの唄、会いたかった

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歌謡編−(7)リンゴの唄、会いたかった

盛夏に爽やかな香りを放つリンゴ「王林」の若い実。収穫は11月ごろだという=福島市大笹生

 間もなく8月15日。70年前、日本は敗戦を迎え、存亡の危機にあった。その66年後、今度は東日本大震災により再び大きな危機に直面した。しかし、そのたびに人々は歌に出合い、「歌の力」の意味を知った。

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 1945(昭和20)年8月15日は暑い日だった。大笹生村(現福島市大笹生)では、村に残っていた人々がラジオのある家に集まり、玉音放送に聞き入った。セミがジージーと鳴く果樹畑では、手入れが行き届かず小さいままの、地元で「なるこ」と呼ぶ青いリンゴがなっていた。当時9歳だった同市の農業油井憲一さん(79)の脳裏には、そんな光景が焼き付いている。

 「働き盛りの男性は、ほとんどが戦争にとられていた。自分の家でも、父と叔父2人が戦地へ行き、父は3度目の召集でビルマ(現ミャンマー)にいた」

 戦時中から終戦直後、男手のない家を支えたのが母だった。しかし、女手一つで当時1町5反(約1.5ヘクタール)あった果樹畑や水田を維持できず、半分ほどの耕作権を地主に返していた。戦地から引き揚げてきた父は、それを知り、母をたたいた。「二人とも無念だったと思う」と油井さんは言う。

 戦後、そんな母が、ほっと息をついただろう時間が、家族や親類の集まりだった。お酒が入ると、母はみんなと歌を歌った。そのうちの1曲が、当時流行した「リンゴの唄」だった。

 油井さんもその後長い道のりを歩み、今にして思う。「『リンゴ可愛(かわい)や...』と歌う歌は、果樹を栽培する農家にとって、自分の生活から出た歌のようだったし、みんなが口ずさめた。当時の農村に、夢や希望を与えてくれたのだろう。歌には、人間を前向きにする力がある。歌があるから、人はあきらめないで頑張れるのではないか」

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 2011(平成23)年12月25日。南相馬市・鹿島中の体育館では、館内を半分以上埋めた子どもたちから歓声が上がった。アイドルグループAKB48がこの年の5月から始めた震災被災地訪問で、県内では初めて。しかも同市では、アイドルによる公演自体が東京電力福島第1原発事故の後、初めてだった。

 AKB側から訪問の申し入れを受けた同市社会福祉協議会ボランティアセンターの浜名智佳子さん(55)は「初めは、会場を引き受ける施設はないと思っていた」と明かす。

 当時、市内は原発事故が暗い影を落としていた。福島第1原発から半径20〜30キロ圏に当たる同市原町区などは緊急時避難準備区域指定が9月30日で解除されたばかり。20キロ圏内の小高区などは無人の警戒区域だった。

 このため30キロ圏外の鹿島区には仮設住宅が集中。30キロ圏内の小・中学校も同区に仮の教室を置いていた。ただ、ステージを持つ区内のホールは閉鎖中。体育館のある学校では教職員が震災後の対応に追われていた。

 そんなとき浜名さんに鹿島中の菊地義広校長(当時)から連絡が来た。「子どもたちもアイドルの歌で元気が出るだろう。市教委と相談し、体育館を使ってもらおうと決まった」

 この日のクリスマス公演は、鹿島中と万葉ふれあいセンターで開かれ、AKBの中心メンバーら6人がサンタクロースの衣装で登場、ヒット曲やクリスマスソングを歌った。終演後には、子どもたち一人一人と言葉を交わし握手をした。

 この日まで準備作業に忙殺され「二度と引き受けるのはやめよう」と考えていた浜名さんは、会場で幼い少女に声を掛けられた。「AKBを呼んできてくれて、ありがとう」。そう言われ涙があふれた。

 以降、AKBは毎年のように震災があった3月11日、南相馬市の被災者に会いに来て、歌声を披露する。中学2年の長女と公演に駆け付ける作業療法士の女性は浪江町から相馬市に避難中だが、「原発事故の風評が流れるなかで、よく来てくれた」といつも思う。「だからAKBの曲では『会いたかった』がいいなと思っている」

 リンゴの唄 1945(昭和20)年10月公開の映画「そよかぜ」の挿入歌として並木路子が歌い大ヒット。翌年、並木と霧島昇(いわき市出身)が共唱したレコードが発売された。作詞サトウハチロー、作曲万城目正。

   会いたかった 2006年10月発表されたAKB48のメジャーデビュー曲で代表曲の一つ。作詞は秋元康さん、作曲はBOUNCEBACK。