回想の戦後70年 漫画・特撮編−(3)ウルトラマン

 
漫画・特撮編−(3)ウルトラマン

須賀川市の松明通りに立つウルトラマンのモニュメント。日が暮れると車のライトで、スペシウム光線を放ったように見えることも(C)円谷プロ

 「年に数回、映画でしか見られなかった怪獣が、テレビで毎週見られる。怪獣に夢中だった男子の間では、放送前から新番組の話題で持ちきりだった」

 1966(昭和41)年。特撮監督円谷英二(須賀川市出身)の実家近くで生まれ育ち、その評伝などの著作がある鈴木和幸さん(55)=同市=は当時小学1年生。この年の記憶は「ヒーロー誕生前夜」の高揚感から始まる。

 1月2日夜7時。正月で家族が集まった自宅の居間、ブラウン管の白黒テレビには不気味な効果音とともに題字が現れた。

 この日、放送が始まった「ウルトラQ」は、円谷英二が社長だった円谷プロが、新しい「特撮モノ」を目指しTBSと制作した30分番組。特撮を駆使し怪奇とSFを融合した世界が日曜夜、お茶の間に届けられ大ヒットし、空想特撮シリーズの1作目となった。

 「それまで見たこともない全く新しい番組だった」

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 当時は高度経済成長期の真っただ中。65年からは57カ月を記録した「いざなぎ景気」が始まり、世の中が急速に変化した。映画の人気者だった怪獣が、普及の進むテレビへ進出するなど、鈴木さんの記憶にも変化の様子がくっきり残っている。

 こんな記憶もある。ウルトラQが最終回を迎えた66年7月、クリーニング業を営む鈴木家は、引っ越しで慌ただしかった。その疲れからか、鈴木少年はテレビの前で居眠り。毎週欠かさず見ていた番組の最終回を見過ごしてしまった。

 「円谷英二さんと同じ1901(明治34)年生まれの祖父が、家内制手工業の職人として創業したクリーニング店を、昭和一桁の父がオートメーションに転換した時期だった。一方、自分はテレビを見過ごし泣きじゃくり、親にひどく叱られた」

 だが、鈴木少年に泣き続けている暇はなかった。翌々週には「ウルトラQ」の後番組「ウルトラマン」の放送が始まった。

 身長40メートル。ウルトラマンは、巨大ロボットを除くと例のない巨大ヒーローだった。怪獣らと戦う迫力が子どもたちを魅了し、今に続く巨大ヒーロー路線を決定づけた。放送前、その姿に違和感を覚えたという鈴木さんも「戦闘シーンに理屈抜きで衝撃を受けた」と力を込める。

 「昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか」(集英社クリエイティブ)を出版した読売新聞東京本社の鈴木美潮編集委員(50)は、この巨大ヒーロー像を高度経済成長の投影だと分析する。「ウルトラマンのイメージは青空の下、すっくと立っている姿。敗戦から時間がたち、日本人がようやく自信を取り戻し、青空を見上げて立つことができたときに生まれた」

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 巨大ヒーロー誕生から間もなく半世紀。円谷英二の故郷須賀川では今、ウルトラマンたちの活躍が目覚ましい。

 ここでは「ウルトラヒーローの聖地」づくりが1992(平成4)年、民間主導で始まった。中心は須賀川青年会議所を母体に生まれたサークル「シュワッち」。毎年4月に開く主催イベント「ウルトラファミリー大集合INすかがわ」は、ウルトラヒーローが総出演する全国唯一のヒーローショーだ。東日本大震災による中断を乗り越えて今年16回目を迎えた。

 官の取り組みも進む。福島空港と円谷プロとの提携を経て、同社創業50周年の2013年には、須賀川市がウルトラマンの故郷「M78星雲光の国」と「姉妹都市」を締結した。今年は、市内の目抜き通り「松明(たいまつ)通り」で、ヒーローと怪獣のモニュメントの設置が進み、街にファンを呼び込む試みが展開中だ。

 「シュワッち」の山田和由代表(50)は「今の盛り上がりのきっかけは震災。復興を応援したい円谷プロと、市の思いが重なった。ただ、毎回満員だったショーの集客は回復してきたとはいえ、全盛期の8割程度」と話す。これからが正念場。青空の下、すっくと立つヒーロー像に復興への希望を重ねる。 

 ウルトラヒーロー 円谷プロの制作作品に登場する巨大ヒーローの総称。初代は、1966(昭和41)年7月、TBS系で放送が始まった「ウルトラマン」。「『M78星雲光の国』から地球の平和を守るためやってきた」ヒーローたちを中心に、ウルトラの父、ウルトラの母を交えた家族的な関係が設定されている。このほか、異なった世界観に沿って制作された作品もある。円谷プロ公式ホームページでは、テレビ東京などで現在放送されている最新作のヒーロー、ウルトラマンX(エックス)まで40体が掲載されている。