回想の戦後70年 スポーツ編−(3)相撲に懸ける

 

 1972(昭和47)年1月の大相撲・初場所。幕内初優勝を果たした小柄な力士に、当時は東京・蔵前にあった国技館だけでなく、全国の相撲ファンの目がくぎ付けになった。賜杯を手にしたのは相馬市から相撲の世界に飛び込んだ初代栃東、先代玉ノ井親方の志賀駿男さん(70)。その勇姿を、長年の後援会関係者は「スポーツで、あれ以上の感動を味わったことがない」と振り返る。春日野部屋に入門した60年から、12年の時がたっていた。

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 志賀さんは44年、茨城県谷田部町(現つくば市)に生まれ、間もなく父の故郷・相馬郡日立木村(現相馬市)に引っ越した。「幼少の記憶は日立木から始まる」と話す志賀さんは、終戦直後の当時の暮らしを「常に飢えがつきまとった」と振り返る。

 村の産業は農業、漁業が中心で、学校で出るのはわずかな脱脂粉乳。子どもは中学、高校を卒業すると集団就職で首都圏へ向かい、日本の高度経済成長を支えるようになる。地方で育ったエネルギーが、中央に吸われ続けた時代だった。

 中学生の志賀さんも建築の知識、技術を身に付けて就職しようと原町工高(現在は廃校)へ進んだ。はじめは野球部に入ったが、野球部と相撲部を兼ねた監督に誘われ、1年生の夏に県総合体育大会の相撲競技に出場。素人ながら個人の部で優勝を果たす。これがきっかけで志賀さんは大相撲の道を選んだ。

 上京のため乗った常磐線の車内は、集団就職の若者で満席だった。「自分ももともとは就職するために高校に進学したんだ」と思うと、若者たちの心と自分の情熱が重なったように思えた。「強い力士にならなければ、もう故郷の土は踏めない」と自分に言い聞かせた。

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 志賀さんが栃東として初土俵を踏んだのは60年11月の九州場所。「金の卵」ともてはやされた集団就職の若者たちを歌った「あゝ上野駅」がヒットするのは4年後の64年。志賀さんも卵からかえるのに、同じ長さの試練の時を経ることになる。

 ハングリー精神がまだ十分に残っていた勝負の世界で、体が小さい栃東が勝ち進むのは並大抵のことではなかった。それでも春日野親方(元横綱栃錦)の熱心な指導のもと、64年3月の大阪場所で十両に昇進。給料がもらえる「関取」になった。

 ただ、十両では膝の故障も出て、入幕を果たしたのは67年3月場所。「青春の全てを厳しい稽古にささげた」と振り返る志賀さんの支えになったのは、いつでも温かい故郷の応援だった。

 現役時代、本場所で栃東が勝つ度に、地元の後援会組織が宇多川に花火の祝砲を上げてくれた。勝ち越しが決まったときや、平幕力士が大関に勝つ「銀星」だと2発、同様に横綱に勝つ「金星」ならば3発。勝利を祝う相馬の花火は、栃東のしこ名を継いだ志賀さんの次男太祐(だいすけ)さん(39)の現役時代にも打ち上げられ、相馬に本場所の季節を告げる風物詩になっていく。

 そして迎えた72年初場所。関脇になった直後にウイルス性の肝炎を患い、大関昇進の夢を絶たれていた栃東の番付は西前頭5枚目。しかし、同場所は横綱の休場や大関の不調が重なり、終わってみれば11勝4敗で悲願の初優勝。「偶然が重なったおこぼれの優勝」と自嘲気味に振り返る志賀さんだが、膝の故障と肝臓の病を抱えた中での優勝で「試練を乗り越えたごほうびだったかな」と笑う。

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 優勝後の相馬市でのパレードでは沿道に多くの市民が駆け付け、地元のヒーローを熱烈に歓迎した。志賀さんは「角界に入り、やっと故郷に錦を飾れた」と思ったという。

 引退後に玉ノ井部屋を起こしてから相馬市で行っている恒例の夏合宿は、志賀さんが心の原風景を訪ねる特別な時間になっている。今夏も力士約20人が土俵で汗を流し、地元住民と交流した。合宿所のすぐ近くに広がる松川浦を眺めて志賀さんがつぶやいた。「復旧・復興の後押しのためにも、玉ノ井部屋の力士の活躍を見せたい。自分を支えてくれた相馬への恩返しだから」

 栃東知頼(とちあずま・ともより。本名・志賀駿男=しが・はやお)茨城県生まれ、相馬市出身。大相撲の春日野部屋に入門して1960年11月に初土俵、67年3月場所入幕。栃東のしこ名で活躍し、技能派力士として東の関脇まで進んだ。技能賞を6回、殊勲賞を4回受賞。72年初場所に幕内優勝を果たし、引退後は春日野部屋付き親方として後進の育成に当たった。90年、師匠の死去を受けて独立、玉ノ井部屋を創設した。2009年に日本相撲協会を定年退職し、次男で2代目栃東の太祐氏に親方「玉ノ井」を譲った。