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 ゆかりの地 
 
 生家近くに日新館 小田山に砲術場跡


 今回は、会津若松市を中心に、鶴ケ城以外の八重「ゆかりの地」を紹介したい。
 生家跡は、現在の米代二丁目で今は駐車場になっている。間口約30メートル、奥行き約50メートルあった。生家跡の東約50メートルには、「山本覚馬・新島八重生誕の地碑」が建つ。

 生家の北約200メートルには、会津藩校日新館があった。北西部分に位置していた天文台は石垣部分、さらに、若松商業高内には南門礎石、謹教小には大成殿に架かる〓橋(はんばし)がそれぞれ残る。日新館では、八重の兄覚馬や元夫の川崎尚之助が砲術を教えていたが、女性だった八重は、建物内には入れなかった。

 また、新政府軍が鶴ケ城に向けて大砲を撃ち込んだ小田山の西山麓には、会津藩士や八重らが、実弾の射撃練習をしたとされる高さ1.5メートルの的跡(まとあと)の砲術場が残っている。

 戊辰戦争で開城後、男子は謹慎を命じられたが、八重は弟三郎と称し、男装で検査を通った。猪苗代送りとなった時、「ア、女郎(めろう)が居る」と男装がバレそうになったが、捕まらず、八重らは石畳の滝沢街道を猪苗代に向かった。

 門田町一ノ堰の光明寺には、慶応4(1868年9月17日に戦死した父権八の墓があり、襄と帰郷した八重は明治15(1882)年に訪れたとみられる。

 八重と母佐久子(佐久とも)、兄覚馬の妻うら(うら子とも)と姪(めい)の峰は、明治4年10月まで山本家使用人の農家に住んでいた。『山本覚翁の逸事』に、「会津より西三里ばかりの一村落に宿す」と書かれている。現在の会津美里町雀林から会津坂下町勝方付近である。八重は、農作業をしながら遠くに戊辰戦争で焦土と化した故郷若松を眺め、敗戦の悔しさを感じていたことであろう。

 最近明らかになったが、『元斗南藩貫属各府県出稼戸籍簿』に明治3年、八重が米沢へ出稼ぎに行ったという記録が見つかったことから、会津を一時離れ、米沢に行っていた、と推定される。北塩原村の米沢街道は、八重が米沢へ出稼ぎに行くために通った街道で、明治15年8月には、襄が米沢へ行くため、桧原の大和屋に宿泊している。

 さらに、明治15年7月、襄と八重が、「ドタパタ馬ニ引カレテ若松ニ参ル」と、山道に苦労しながら会津に来て宿泊した三階建ての清水屋旅館跡は七日町にあった。明治19年に襄が、説教や立ち寄った場所として大町四ツ角の中村宅や栄町の風間宅がある。

 宮町の会津若松教会は、キリスト教徒の襄と八重ゆかりの教会で、明治24年1月に設立、現在もその遺志を受け継いでいる。当時は、現在の市役所栄町第一庁舎の場所に建っていた。

 京都に移っても故郷会津を思い続けた八重が昭和6(1931)年9月に整備した「山本家之墓」は、慶山二丁目の大龍寺にある。

(〓は伴の人偏がさんずい、半のちょんちょんがハの字)


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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ゆかりの地
「山本覚馬・新島八重生誕の地碑」。郷土史家の故宮崎十三八氏宅前に、平成元年5月30日、建立された

【2012年4月8日付】
 

 

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