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四斗俵を上げ下げ 体力自信男子並み
八重の幼少時代の記録はほとんど残されていない。数少ない記述のある『会津戊辰戦争』によると、八重の数え13歳の逸話として「子供の時から男子の真似(まね)が好きで、米四斗俵(60キロ)を自由に四回まで肩に上げ下げした」とある。
数え13歳といえば、現在の小学6年生に相当する年齢。米俵の形は、現在の紙袋製と異なり、担ぎやすかったとはいえ、私も同じ年齢時に米俵を担いでみたが、やっとの思いで担ぎ上げた。それも2回が限度であった。
実際には大げさとも思える逸話だが、女子でありながら八重はがっちりした体形で、体力には相当自信があったことがうかがえる。
また、『会津戊辰戦争』には、「石投げなどは男並みにやっていた」とあり、男子に交じって同じ遊びに興じていたのではないか。若松城下では数え十歳になると、男子は藩校「日新館」へ入学することから、以降、男女一緒に行動することがないため、八重が男子並みに石投げをしたとの逸話は、10歳頃までのことと思われる。
ほかに、城下では6歳から9歳まで、藩士の男子集団として「什(じゅう)」というものがあった。各自の家を順に回り、会合をすることを「遊び」といい、座長の「什長」が「什の掟(おきて)」として、「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」など七カ条を読み上げ、全員で背いたかどうかを毎日反省した。八重は女子のため、「什」に属することはできず、その性格からも参加できない身を恨んだに違いない。
後年、八重は「今の世なら運動選手などには、自ら望んで出たかもしれません」と語っている。体力に自信があり、運動神経も良かった八重。鶴ケ城籠城戦ではスペンサー銃やゲーベル銃(ゲベール銃ともいう)という約4キロもある銃を持って自由自在に狙撃をしていたことから、腕力も男子並みに強かったようである。
会津地方では、数え13歳になると、現在でも小学校の学年行事などで柳津町の福満虚空蔵尊に参拝する「十三詣(まい)り」の風習がある。これは、誕生以来、干支(えと)が初めて一回りする節目に厄払いをし、無限の知恵と慈悲を授かるためのもので、江戸時代頃からの行事である。
八重も数え13歳の時に十三詣りをしたと想像され、言い伝え通り、無限の知恵を得て、その後の人生を歩んでいった。余談だが、福満虚空蔵尊(圓蔵寺)の南側には、新政府軍の薩摩藩と長州藩が撃ち込んだ多数の銃痕が今でも残っている。
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会津古城研究会長
石田 明夫
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柳津町の福満虚空蔵尊圓蔵寺。十三詣りの霊場として今も参拝者が絶えない |
【2012年4月22日付】
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