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  【 会津の華は凛としてTOP 】
 白虎隊士への教え 
 
 家風の違いを痛感 無断断髪叱られる


 八重の生家には、白虎隊士らが時々遊びに来て射撃を教わっていたことは、前にも書いた。銃の扱いに精通し、新式銃を手に、的確に、時に優しく、時に厳しく教えてくれる八重を白虎隊士は、姉のように慕っていたことであろう。

 ところで、会津藩は慶応4(1868)年3月10日、軍政を改革した。少し長くなるが、解説したい。

 『会津戊辰戦史』によると、中国に伝わる東西南北の四神名になぞらえ、年齢によって区分けした。つまり、南神の「朱雀(すざく)隊」、東神の「青(せい)龍(りゅう)隊」、北神の「玄武(げんぶ)隊」、西神の「白虎隊」の四隊である。さらに身分による階級でも分けた。それぞれの隊は、おおよそ百人編成で「一番隊」と称し、各中隊に分けられていた。ほかに、砲兵隊、築城兵などがあり、合計31番隊、約2800人の正規兵がいた。

 白虎隊には、数え16、17歳が属し、中隊としてはほかの隊とは異なり、半分の約50人編成となっていた。15歳以下は、別に「幼年組」として位置づけられていた。
 前述の通り、八重の家の東隣には、白虎隊士の伊東悌次郎が住んでいた。

 『会津戊辰戦争』によると、八重は、「悌次郎が数え15歳のため、白虎隊に編入されないのを始終残念がっていた」とある。八重は、悌次郎を弟のように可(か)愛(わい)がっていたことから、白虎隊に入れない悔しさをわがことのように残念がったに違いない。

 余談だが、わずか一歳足りないために白虎隊に入れなかった悌次郎は、勉学に優れ恩賞を受けているほか、剣にも精通し、父に買ってもらった備前兼光の大小刀を差していた。

 悌次郎は、父に白虎隊に入れるようお願いした。しかし、父は、「御上(おかみ)の定めなり、欺くべからず」として聞き入れなかった。それでも悌次郎は、白虎隊に入ることを諦めず、再三願い出たため、父は白虎隊の日向内記(ひなたないき)に話した。内記は、悌次郎の志に感銘し、生年月を訂正、悌次郎は念願の白虎隊に入ることができたのである。年齢を訂正して白虎隊に入ったのは、ほかにもおり、飯盛山で自刃しようとしたが、願い叶(かな)わず蘇生した飯沼貞吉もそうで、2歳年齢を訂正し入っている。

 話を八重に戻そう。ある時、八重は射撃の動作を速くするため、悌次郎の前髪を切ってやった。すると、悌次郎の母に「特に厳格なる伊東家に無断で断髪したのは、乱暴極まる」といたく叱られた。家風の違いを身にしみて痛感した八重だが、後に白虎隊に入り戦死した悌次郎を「誠に可愛そうでなりません」と、幼い時代からの思い出と重ね合わせ、あらためて命の大切さを知ることになる。

 なお、厳格な伊東家とは、故伊東正義衆院議員の先祖にあたる。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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白虎隊士への教え
「会津藩大講場(だいこうば)跡」。強清水(現会津若松市河東町)には、会津藩が鳥狩と称し軍事教練をしていた跡が残る

【2012年5月13日付】
 

 

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