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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 兄覚馬と弟三郎の訃報 
 
 「敵討ち」胸に戦う 形見の服着て男装


 八重の前半生で、最も衝撃的な出来事は、言うまでもなく戊辰戦争だろう。なかでも、会津から遠く京都で起きた鳥羽伏見の戦いと、鶴ケ城内で一カ月に及んだ籠城(ろうじょう)戦は、23歳の八重にとって生涯決して忘れることのできない、悲惨の極みだったに違いない。

 ここで、鳥羽伏見の戦いについて触れておきたい。戦いは、慶応4(1868)年1月3日、京都の鳥羽と伏見でほぼ同時に起き、八重の兄覚馬と弟三郎が参加している。会津藩は、前年の12月9日に発せられた「王政復古の大号令」の後、伏見の御香宮(ごこうのみや)の南に位置する伏見奉行所に拠点を移し、藩主の松平容保公らは3日後の12日に大坂へ移っていた。

 伏見奉行所への新政府軍の攻撃は、北東に位置する高台から、薩摩藩の大山巌が指揮した大砲隊によって行われた。なお、坂本龍馬襲撃でも有名な「寺田屋」(鳥羽伏見の戦いで焼失)から西にある京橋は、新政府軍と会津藩による激戦地として知られ、近くには、会津藩士200人が大坂から援軍に来て駐屯した伏見御堂(みどう)がある。

 八重の兄覚馬は、戦いの際、伏見から北上して京都へ向かったが、街道が塞(ふさ)がれていたことから、迂回(うかい)して山科から入ろうとしたものの蹴上(けあげ)(現京都市東山区)で薩摩藩に捕まり、覚馬を知る薩摩藩士により、かろうじて処刑を免れたとされる。『薩摩藩慶応出陣戦状』には、覚馬が大坂で生け捕りにされた、とある。

 その後、覚馬は京都御所の北にあった薩摩藩邸(現在の同志社大)に幽閉される。しかし、会津の山本家には、覚馬が京都の四条河原で処刑された、と誤って伝えられた。理由は明らかでないが、八重にとって目の前の大きな存在だった兄の死の一報は、到底受け入れがたいものだったろう。

 さらに、前後して八重の家に衝撃の知らせが届いた。弟の三郎が、鳥羽伏見の戦いで銃撃を受けて負傷、海路江戸へ逃れ、会津藩邸の中屋敷(現東京都港区)で1月16日に亡くなったのだ。21歳だった。

 弟の遺髪と形見の軍服は、会津の山本家に届けられ、八重は、2歳しか離れていない弟の死を嘆き悲しんだことは想像に難くない。

 ところで、八重と弟三郎は、体形がほぼ同じであったという。『会津戊辰戦争』によれば、鶴ケ城籠城戦で開城した翌日の9月23日、北出丸入り口の桜ケ馬場で人員調べがあり、男子は猪苗代送りとなるのだが、前述したように、八重は、弟の形見の軍服を着て男装し、山本三郎と称して検査を通過している。

 人生最大の試練、転機となった戊辰戦争で八重は、2人の兄弟の「敵討ち」を胸に、最後まで戦い抜いたのだ。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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兄覚馬と弟三郎の訃報
「伏見御堂跡」。鳥羽伏見の戦いで会津藩が駐屯した跡で現在の京都市伏見区にある

【2012年5月20日付】
 

 

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