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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 新政府軍北へ進攻 
 
 仇討ちへ女性組織 思い一つ薙刀練習


 鳥羽伏見の戦い後、新政府軍は、天皇家の紋章、錦の御旗(みはた)を先頭に、江戸を目指し怒涛(どとう)のように進んでいく。『会津記』によると、慶応4(1868)年2月16日、会津藩主松平容保(かたもり)公は、江戸の上屋敷、和田倉邸(東京駅から西へ、皇居に入る和田倉門南側)を出て、会津へ向かう。この時、江戸詰の会津藩士と家族も会津へ帰ることとなり、皆、親戚縁者を頼り、それぞれ会津を目指した。

 同22日、容保公は会津へ到着した。『諸月番申渡書』によると、27日には家臣に対し、「薩長(薩摩・長州)二藩は、私怨を酬いろうとして王師(天皇)の名を借りて、兵を我に加えようとしていると忠告があり、非常に備えよ」と、非常事態宣言をしている。

 八重は、若松城下に続々と戻ってくる江戸詰の家臣やその家族、さらには、亡き弟の遺髪や形見の軍服が届いたことから、会津藩をめぐる情勢が一層緊迫してきたことを知る。そして、最愛の弟を失った悲しみは、新政府軍に対する憎しみ、怒りへと転じていく。

 城下の女性たちは、八重同様、新政府軍に対し怒りを覚えていた。『会津戊辰戦争』によると、このころ、城下には「女隊」または「娘子軍(じょうしぐん)」と呼ばれる女性たちの組織が結成され、八重も属している。

 水島菊子と姉の依田(よだ)まき子は、まき子の夫が鳥羽伏見の戦いで戦死しているが、同じように「仇(あだ)なれば、是非(ぜひ)一太刀たりとも怨まんと思い」といった者が二十数人いたという。ただし、「指揮者なき」とあり、江戸勘定役、中野平内(へいない)の妻こう子(43)が年長であったことから一定の指揮を執っていたようだ。婦人らの一団は、江戸詰の中野こう子、竹子、優子ら親子と、会津在住の八重、依田まき子、水島菊子らに分かれていたが、皆思いは一つ、肉親の仇討ちでまとまっていた。

 会津藩では、女子が戦いに参加することを正式に許すことはなく(『会津戊辰戦史』)、「女隊」「婦人決死隊」と呼んでいたが、彼女らは、「娘子軍」と呼び、薙刀(なぎなた)を日々練習していたという。ただ、八重は、前述した籠城戦の戦いぶりでも分かるように、薙刀を主とする戦いではなく、鉄砲を重視した近代戦で戦うべきとの考えがあり、娘子軍とは一定の距離があったのではないか。

 時は流れ、8月21日(現在の新暦では10月6日)、会津藩が母成峠の戦いで敗北したとの知らせが城下に伝わると、城中より「警鐘の合図あらば、婦女子は入城すべし、ただし、着のみ着のままたるべし」(『会津戊辰戦争』)との伝令が下る。各戸では、取り乱したる形跡がなきよう、家の中は整頓等をしていた。八重の生家山本家でも敵の進攻に備え、父母や義姉、夫の川崎尚之助らとともに非常時の相談を重ねたが、八重は早くから入城すると心に決めていたと思われる。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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新政府軍北へ進攻
「母成峠の会津藩塹壕(ざんごう)跡」。郡山市と猪苗代町の境にある母成峠には、384メートルの塹壕跡が残る

【2012年5月27日付】
 

 

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