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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 割場の鐘と入城 
 
 命の限り戦う覚悟 七連発銃背に担ぎ


 慶応4(1868)年8月21日、母成峠が新政府軍の手に落ち、22日には、土佐藩士板垣退助の予想通り、猪苗代城代、高橋権太夫(ごん だ ゆう)は、猪苗代城と藩祖保科正之公を祀(まつ)る土津(はに つ )神社に火を放ち退却した。さらに23日には、白虎隊が死闘を繰り広げた戸ノ口原の戦いがあったが、これについては後日触れる。

 8月23日(現在の10月8日)は、八重にとって戊辰戦争で最も長い、忘れられない一日だったと思われる。

 『会津戊辰戦争』には、戸ノ口原の砲撃を「砲声若松に達し終夜やまず」とあり、八重も戦いが近いことを知る。城下では現在、大熊町役場となっている場所にあった、割場(わりば)の鐘が激しく打ち鳴らされていた。

 八重は、城に入る決意をした。その様子を『男装して会津城に入りたる当時の苦心』には、「着物も袴(はかま)も総(すべ)て男装して、麻の草履を穿(は)き、両刀を佩(はさ)んで、元籠(もとご)め七連発銃を肩に担いでまいりました」と記している。

 約4キロある新式のスペンサー銃は重いので背中に担ぎ、刀を腰に差して城に入った八重。さらに、「私は弟の敵を取らねばならぬ、私は即(すなわ)ち三郎だといふ心持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命のかぎり戦ふ心で、城に入りましたのでございます」と、入城の決意を吐露している。

 八重が城に入ると、容保(かたもり)公の2歳上の義姉照姫(てるひめ)らが本丸にいて、「御婦人などは、白無垢(むく)に生々しい血潮の滴っているのを着てをられました。(中略)御本丸へまいりますと、大書院には大勢の女中が照姫様を取囲んで、警護いたしてをりますが、皆、懐剣を持って、いざといはば、城を枕に殉死する覚悟をいたしてをりました」と、緊迫した様子を伝えている。

 『若松記』によると、そのころ容保公は、「君公再ヒ出馬シ給(たま)ヒテ、(中略)飛丸来ル甚シク、君公ノ左右ニ屡(しばし)来リ危ナケレハ、頻(しき)リニ入城シ給ハンコトヲ乞(こ)ヒ、暫(しばら)ク還馬シ給ヒ、五ノ丁(現会津若松市役所前、東西の道)ヲ過キ給フトキ、敵ノ飛丸来リ、公ノ馬ニ当リ、馬斃(うまたお)ル、故ニ下馬シテ入セ給フ、危哉々々」とある。

 簡単に説明すると、若松城下の甲賀町口で、容保公は家老の田中土佐(とさ)らを指揮して戦っていたが、敵の弾丸が飛んで来て危ないため、城に入るよう藩士らが願った。城への道を少し戻ったところで、容保公が乗った馬に弾が当たり、馬は倒れ、容保公は九死に一生を得る。藩士らは、身も震えるほどに驚いた、という。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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割場の鐘と入城
「甲賀町口郭門跡」。若松城外郭の正門で、今も石垣の一部が残る

【2012年6月10日付】
 

 

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