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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重の大手口の戦い 
 
 塁上から砲を撃つ 導火線に木を使用


 風雲急を告げる中、八重は慶応4(1868)年8月23日、生家の山本家から鶴ケ城内に入った。『会津戊辰戦争』に八重の次のような言葉が残る。「追手門や西出丸の方面には無数の敵が居(を)りましたが、幸ひに東方面には余り見えませんでした、しかし、わたしのすぐ後から敵三名三の丸に忍び込んで捕(とら)へられ、訊問(じんもん)の結果、上方弁の為(ため)、間諜(かんちょう)と知れ、廊下橋の東で之(これ)を斬り暫(しばら)く其(その)首を晒(さらし)てありました」

 八重は敵の攻撃のため、北出丸や西出丸へは入れず、三ノ丸南門、二ノ丸南門、廊下橋を経て本丸に入ったと思われる。その時、前述のように敵の三人の密偵が三ノ丸に忍び込み、斬られている。当時、八重はじめ会津の人は、上方弁をほとんど理解できなかったと思われる。城に入った八重は、直ちに北出丸に向かい、持参したスペンサー銃で狙撃を始めたと推測される。

 当時、北出丸は現在の武徳殿のような建物はなく、門の側(そば)に番所があるだけだった。建物はわざと建てず、敵が北出丸に侵入した場合、門を閉ざし、内側の帯郭(おびくるわ)などから一斉射撃をして殲滅(せんめつ)する「皆殺丸」であったからである。

 北出丸の激戦の様子は『会津戊辰戦争』に、「西軍遂(つい)に同門(甲賀町口郭門)を突破し、勢いに乗じ甲賀町通りを驀進(ばくしん)し、北出丸前、桜馬場の小堤(こつつみ)及び西郷頼母(たのも)、内藤介右衛門(すけうえもん)邸の土塀に拠(よ)りて猛射す、又(また)一方、日新館方面よりも城門にせまりしが、城中の老幼(ろうよう)是(これ)を見、追手門上より之を敢射(かんしゃ)す、又砲を北出丸塁上に据えて之を撃つ、(中略)農兵あり、城側の望火楼に登り戦況を観望し居たりしが、俄然(がぜん)警鐘を乱打す」とあり、大手口前での砲撃の様子や、割場(わりば)の鐘を農兵が打ち鳴らしていたことを記している。

 また、『会津戊辰戦争』の著者、平石弁蔵は八重の活躍を以下のように記す。
 「北出丸より小銃射撃をなせしは、銃眼ありしを以(もっ)て疑う余地なし、只(ただ)、城中より俄然砲撃を開始して、甲賀町通りを驀進し来る西軍鋭鋒(えいほう)を挫(くじ)きたりと、(中略)塁上土塀の下の大石を前壕(ごう)に突き落し、砲身を容るゝに足るべき穴を設けたるものにして、山本八重子等之を補助せり、當時突き落したる石は、涸水(こすい)期に際し塁下に露出する筈(はず)なり」

 八重は、甲賀町通り正面に位置する北出丸に、土塀下の石垣を崩して、大砲を据え応戦したとされるが、崩したのは土塀だけと思われる。『若松市史』によると、北出丸の石垣は承応(じょうおう)3(1654)年、「東北の角櫓(すみやぐら)より、西の方石垣拾四間」の改修記録が残ることから、渇水期に見えた壕の石は、補修時の残骸とも推定される。

 ところで、以前にも触れたように、八重が使用した大砲は、城内に一門あった新式の四斤山砲(よんきんさんぽう)と推測される。四斤とは、砲弾の重さ(約四キロ)を意味するもので、木の導火線を使用した爆裂弾であり、威力があった。

 八重の思いは一つ、兄弟の敵討ちであった。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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八重の大手口の戦い
「北出丸の石垣改修銘」。文化14(1817)年銘。城内には、改修年号のある石垣が2カ所ある

【2012年6月17日付】
 

 

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