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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重、夜襲を断念 
 
 子どもの出撃阻止 容保公の意向受け


 籠城戦2日目の8月24日(現在の10月9日)。八重は寝つけず、前日に続き夜襲を試みようとする。しかも一人で、だ。

 『会津戊辰戦争』には、「一人にて出撃せんと、夜暗(やあん)に乗じ、御台所門(この門は、天守閣東側入り口前に台所があり、その北の裏門を指す)より出て、太鼓門に来ると、11、2才の子供等(ら)十人許(ばか)り、何(いず)れも手頃の長さに切りつめたる槍(やり)を携へ、偉(えら)い元気で集合して居ました」とある。

 八重が一人で夜襲に出掛けると、城内に短く切った槍を持つ子どもたち(藩士の娘水島粂(くめ)ら)がいた。どうやら夜襲を予想して、太鼓門で待っていたようである。さらに、その中の一人が、「是非(ぜひ)夜討ちに私共も同行を」と、八重を見て頼み込んだ。

 八重は、「わたし一人なら格別、子供等を同伴することは、一應(いちおう)殿様(松平容保(かたもり)公)に御伺せんければならぬから、と、子供等を待たして(殿様がいる)黒鉄(くろがね)御門に至り、此由(このよし)を申上ぐる」。八重は、子どもを夜襲に同行させて、万一、敵に斬られたり撃たれて死んでは可哀(かわい)そうだと思い、子どもたちの出撃を止(や)めさせるため、わざと殿様のところに行って伺いを立てたと思われる。

 すると、容保公は「一同の健気(けな げ )な志は褒めて遣はすが、女や子供のみを出撃さしては、城中兵なき事を示すが如(ごと)きもので、反(かえっ)て城中の不覚となるから差控へる様(よう)」と伝えた。「(殿様の)仰(おおせ)なれば、其旨(そのむね)子供等にも、懇々と申含めて解散させ、わたしも止むなく出撃を中止しました」。八重は、容保公から会津藩士の面目を潰(つぶ)さないよう説諭され、子どもたちには殿様の意向を納得するまで説明し、夜襲を取り止めたのである。

 容保公は、八重に対して、体力に自信があり、砲弾から身を守る知識が豊富なことから、城内の婦女子を取りまとめていた容保公の2歳年上の義姉で、飯野藩(現千葉県富津)出身の照姫様の世話をする「御側役心得(おそばやくこころえ)」を命じている。

 一方、『会津戊辰戦争』は、「籠城中、子供は凧(たこ)を揚げて遊んで居ました」と、城内の子どもたちの様子を伝える。凧揚げは春の遊びとされていたが、晩秋の思わぬ凧揚げに、八重も高く飛んでいたと感心している。この凧とは、会津唐人凧で、本来は凧に刃物が付けられた「喧嘩凧(けんかだこ)」である。図柄は舌が長く描かれたもので、長崎県の平戸地方に似たものがある。

 子どもたちは、「戦ゴッコ、鬼ゴッコなど、無邪気に遊んで居ました」。いつの時代もそうだが、籠城戦であっても、子どもたちは比較的自由に遊んでいたようである。また、「熱弾が来ると争ふて之(これ)を拾ひ、御握(おにぎり)と交換して貰(もら)ふて喜んで居ました」というように、子どもたちは、熱くなった砲弾や銃弾を拾い集めて食事を得るなど、籠城戦の一助にもなっていた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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八重、夜襲を断念
「会津唐人凧」。現在も会津若松市内で製作されている

【2012年7月1日付】
 

 

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