minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 会津の華は凜としてTOP 】
 白虎隊自刃の真相 
 
 縄目の屈辱を回避 藩主や先祖思い「選択」


 今回は、八重とも関係が深く、戊辰戦争の悲劇として知られる白虎隊自刃の真相や通説とは違う部分に触れたい。

 決戦前日の8月22日、白虎隊隊長日向内記(ひなたないき)は食糧を取りに出掛けたまま、戸ノ口原の陣地に戻らなかった、とされる。理由は、隊士の一人で飯盛山で蘇生した飯沼貞吉(後に貞雄と改名)が『会津戊辰戦争』の中で、語った次のような記述があるためだ。「(隊長の日向が)我等(われら)には食糧の準備がないから、敢死隊(会津藩が臨時に作った寄せ集めの隊)に相談して、なんとか都合して貰(もら)ふて来るから、一同此處(ここ)に待ち居るやう」

 ところが、白虎隊士に食糧が全くなかったわけではない。飯沼が書き残した『顛末記(てんまつき)』にも「幸いにも十六士中には前夜(22日)の残飯多少腰にするものあり。是(こ)れ能(よ)く各自の腹を癒(いや)するに足らざれども、一時の飢え凌(しの)ぎんとて腰より残飯を取出し、(以下略)」と、食糧をある程度、持参していたことが分かる。

 日向が隊を離れた本意は、戸ノ口原の現地指揮官であった佐川官兵衛らに会い、作戦会議か命令を受けるためだったと思われる。官兵衛は、22日夜、飯盛山近くの滝沢本陣で藩主容保(かたもり)公と会うため、戸ノ口原とを往復し、23日朝は、滝沢本陣に留(とど)まっていた。内記は官兵衛を捜し出せず、戸ノ口原に戻ることができなかったのではないか。

 白虎隊士の自刃の理由も、通説とは違った見方ができる。長くなるが、ここでも『顛末記』を引用したい。

 「篠田儀三郎曰(いわ)く、最早(もはや)暫(しばら)くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀(はかりごと)、元より不可と云(い)うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に擒(とりこ)にせられ、縄目の屈辱を受ける如(ごと)き琴らば、上は君に対して何の面目やある。下は祖先に対し何の申し訳やある如(し)かず。潔く茲(ここ)に自刃し、武士の本分を明にするにありと、議論爰(ここ)に始めて定まり、(中略)慶応四年戊辰八月廿三日巳の刻過ぎなりき、一同列座し西方(南西)鶴ケ城に向え遥拝決別の意を表し、従容(しょうよう)として皆自刃したりき」

 つまり、城が燃えていると見誤った後世の言い伝えとは異なり、鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ、とある。自刃した時刻は、巳の刻過ぎ(午前10時から同11時ごろ)で、八重らのいる鶴ケ城に向かって自刃したようだ。

 飯盛山では、当初16人が自刃し、少し遅れて一人加わり計17人が自刃し、飯沼だけが蘇生した。飯沼家に伝わる『白虎隊自刃の図』は、隊士すべてが黒の洋装で、最初に自刃した16人が描かれている。なお、自刃時の服装の記録を基に、地元の仏師大橋知伸(ちしん)が彫った像は、飯盛山のさざえ堂隣にある宇賀神堂に一体ずつ祀(まつ)られている。

 飯沼は、会津藩足軽の印出新蔵の妻「はつ」に夕方四時ごろに助けられ、(地元慶山の渡部佐平の嫁「ムメ」が第一発見者との説もあり)、歩いて医者のいる塩川(現喜多方市)へ向かったと思われる。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

>>> 16


白虎隊自刃の真相
飯沼家に伝わる「白虎隊自刃の図」。貞雄が絵師梅里に描かせたもので、そこには隊士16人が描かれている

【2012年7月15日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN