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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 城内の食糧 
 
 婦人が分業し御握 十数個の竃、照姫が指揮


 八重らが籠城戦中、食糧はどうしたのであろうか。

 八重は『会津戊辰戦争』で「籠城600近くの婦女子が何(いず)れも断髪をして、着のみ着の儘(まま)、湯にも入らず、玄米の御(お)握(にぎり)に少量の味噌(みそ)か塩に甘んじ、昼夜の別なき労役に従事し、日毎(ひごと)に弥増悲惨の光景にも屈せず、折角(せっかく)敵は、逃げようといはん計りに南方口を明けてあるにも拘(かかわ)らず、誰一人逃れる者もなく、一生懸命に働いて居つた事は、実に勇ましき話であります」と述べている。

 『会津戊辰戦史』によると、城内には婦女子570人、仕立所女中20人、奥女中等25人がいたとあり八重が話した人数とほぼ合致する。

 城内では食糧として、玄米の御握を、味噌か塩で食べていたようだ。御握も初めから玄米ではなかった。『会津戊辰戦争』には、「最初は白米であつたが、次は玄米の握飯となり、それからだんだん小さくなつた」と書かれ、籠城の長期化と砲撃の激化で御握も変化していった。

 さらに「城中、天守閣の下には、結晶せし山塩、乾燥せし田螺(たにし)及び道明寺糒(ほしい)等多量ありて、大に将卒(しょうそつ)の意を強ふせりと云々(うんぬん)」とある。天守閣階下の塩蔵には、山塩や乾燥した田螺、石臼で軽く挽(ひ)いた道明寺糒が多く保管されており、それらも食していた。

 調理の様子は『会津戊辰戦史』に詳しい。「傷病者に給する食物は、奥女中以下の婦人に任じ、照姫(容保公の二歳年上の義姉)自ら之(これ)を監督す、本丸西隅に炊事場を設け、婦人集合して水を汲(く)む者、米を洗ふ者、飯を炊く者、分業して之を為(な)す、炊事場には石竈(いしがま)十数箇を設置し、精米を炊き、『傷病者には特に精米の飯を與(あた)へたり』之を奥女中室に遞送(ていそう)(順送り)し、若年寄格の女中等藩士の婦人を指揮して摶飯(たんめし)(御握)を製し、之に羹蔬(こうそ)、魚肉、鳥肉、牛肉等を添ひ、之を盆に載せ、表使(おもてづかい)女中先頭に立ち侍女二人之に従ひ、幾箇の縦列を作り、整然序を追うて、病室に運ぶを常としたり、(以下略)」と書かれている。

 調理は、照姫が指揮監督し、炊事場が天守閣と走り長屋東側付近に置かれ、分業で当たった。傷病者には、特別に野菜を煮た汁の羹蔬や魚、鳥、牛肉を細かくつみれのように調理し、病室のあった大広間、大書院に二人一組で縦列で整然と運んでいた。

 八重は『男装して会津城に入りたる当時の苦心』の中で、「大きなお釜を幾つも並べておいて、順順に炊ける傍らから握(むす)びますが、炊きたての御飯でございますから、熱くて手の皮が裂けさうになります。一つ握んでは水に手をつけ、また一つ握んでは水につけてゐましたが、それではなかなか追ひつきません」と、当時の苦労を語っている。

 当然のことながら、水の中に落ちた御飯、黒く焦げた御飯、土に落ちた御飯も、汚いとか考える暇もなく一粒も無駄にせずに食べた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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城内の食糧
「本丸炊事場跡」。天守閣南側、走り長屋東側に炊事場が設けられていた

【2012年8月5日付】
 

 

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