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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 柳橋での戦い 
 
 薙刀に辞世の短冊 娘子軍奮戦、竹子斃れる


 前回に引き続き、娘子軍(じょうしぐん)に触れる。娘子軍が城下の湯川に架かる柳橋の北で、大垣、長州両藩と戦ったのは、慶応4(1868)年8月25日のことであった。

 『北国戦争概略衝鉾隊之記』によると、高久(会津若松市神指町高久)にいた会津藩家老の萱野権兵衛と、旧幕府軍の古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊(しょうほうたい)は、朝から城下の七日町を目指して三方向から進軍。しかし、敵軍を突破できず、正午ごろ一旦(いったん)後退し、高久へ戻っている。『若松記』には、午後4時ごろ、衝鋒隊四百余人が二隊に分かれ、再び進撃を始めた。この時、娘子軍は、衝鋒隊に従い、越後街道を南に柳橋へと進んだという。水島(依田)菊子が残した『会津婦女隊従軍の思ひ出』には、その姿を次のように伝える。

 要約すると、全員斬髪の上、白羽二重で鉢巻きをし、中野こう子と岡村すま子は鼠(ねずみ)がかった着物、依田まき子は浅黄がかった着物、中野竹子は青みがかった縮緬(ちりめん)の着物、中野優子は紫の縮緬の着物、水島(依田)菊子は縦縞(たてじま)の入った小豆色の縮緬の着物だった。

 いずれも白羽二重の襷(たすき)で袖を上げ、足は細い兵児帯(へこおび)(男物の帯)に裾をくくった義経袴(よしつねばかま)という模様の入った短い袴を穿(は)き、脚絆(きゃはん)に草履は紐(ひも)で締め、大小の刀を差し、薙刀(なぎなた)を持っていた。一見して、女性と分かる格好であった。そのため「男達は、会津は困つて女迄(まで)出したと云(い)はれては耻辱(ちじょく)だ」と反対したが、押し切って出撃した。薙刀には、辞世の短冊を結び付けた。竹子は「ものゝ夫(武士)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我身ながらも」と歌う。

 『会津戊辰戦争』には、斬り込んで接戦となったことから、女性と分かり、敵の隊長らしき人物が、「討たずに生捕(いけど)れ…」と声を上げ、幾重にも取り囲んだという。娘子軍は「生捕らるゝな…耻辱を受くるな…」と大声を出して互いを呼び合い、必死に斬りまくった。その時、竹子が額に弾丸を受け斃(たお)れた。戦闘時間は2、30分だったという。

 『会津婦女隊従軍の思ひ出』によると、母こう子と妹優子が竹子のもとに行き、優子は「お姉様の御首級(おしるし)を敵に渡さぬやうに、私が介錯(かいしゃく)しませう」と云い、見事介錯(上野吉三郎が手伝うとも)している。その日は、高瀬村(現在の会津若松市神指町高瀬)に引き揚げ、翌日、坂下の法界寺に戻った。

 萱野からは「城の中にへ入つて、手負いの看病其(その)他に働かれたら宜(よ)かろう、是非(ぜひ)城へ入れ」と云われ、28日、八重が籠城していた鶴ケ城に入ることになる。なお、軍事奉行添役神保修理の妻雪子が娘子軍に加わり戦死したという説もあるが、定かでない。

 娘子軍の5人は、萱野から二人の護送が付けられ、敵弾の中を、大町通り、割場から西出丸の西大手門に進み、城に入っている。その姿は、「断髪を無造作に束ねたものと、振り乱したまゝの人とが、血汐(ちしお)に染(そ)んだ破れた着物に、血の附いた薙刀を抱へて居りました」(『会津戊辰戦争』)と戦いの凄(すさ)まじさを物語っていた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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柳橋での戦い
会津坂下町の法界寺にある「中野竹子の墓」

【2012年9月9日付】
 

 

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