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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重と凌霜隊 
 
 最新銃城内に搬入 底突いた弾補充受ける?


 八重は入城初日の8月23日、追手門に進攻する土佐や薩摩藩兵に対して北出丸で狙撃をしている。この日、使用した銃は最新のスペンサー銃である。しかし、自宅から持参した弾は少なく、その日のうちに使い果たしてしまった。

 スペンサー銃は、米国で1860年に作られた元込め銃で、長さ約1.2メートル、重さ約3.8キロ、射程距離は約800メートルであった。前述したように弾は、城内では作ることができず、武器商人から購入しなければならなかった。このため同日夜、八重が夜襲に出掛けた時は、性能の劣る射程約300メートルのゲベール銃を使用している。八重は、西出丸でも狙撃をしていたと『会津戊辰戦争』にあるが、その際に使用した銃もゲベール銃である。

 9月4日になると、郡上(ぐじょう)藩(現在の岐阜県郡上市)の凌霜隊(りょうそうたい)がスペンサー銃を城内に持ち込んでいる。凌霜隊士が書き残した『心苦雑記』によると、敵弾の飛び交う中、城に入った。「四ツ時頃より瓦町(川原町)焼払、昼後此宅(丸山宅・秋月悌次郎生家付近)へ、(中略)朝比奈氏始め残らず四日に城内へ引揚げ、日向内記(ひなたないき)隊へ付属いたし、西出丸と申す処に屯集の由申し聞けらる」

 郡上藩では、家老の朝比奈藤兵衛が、幕府方が勝利した時のためにと、息子茂吉(17歳)を隊長に47人を脱藩させ、幕府方へ派遣した。凌霜隊は各地を転戦し、鶴ケ城に入ると、白虎隊隊長の日向内記の支配下に属した。戦死した者は、西出丸の土手に埋められた。開城後、凌霜隊は郡上八幡へ護送されるが、人数は約30人であった。郷里へ戻った隊士は、賊軍に与(くみ)したとして、悲惨な扱いを受けた。

 なお、凌霜隊が入城した際、八重は、同隊から弾の補充を受け再びスペンサー銃で狙撃をした可能性がある。

 話は前後するが、西出丸からの狙撃先は、西向側の日新館周辺である。24日、西出丸内から火矢(ひや)が放たれたが、建物は全て燃えたわけでなく焼けずに残ったものが多かった。

 では、米代四ノ丁の八重の生家はどうだったのか。『会津戊辰戦史』の9月3日に、「飯田大次郎は、水戸の市川三左衛門、朝比奈弥太郎、筧助太夫等の兵四百人を合し、津田範三を幌役(ほろやく)とし、簗瀬幸之祐、真節、松本傳十郎之に属し、南畑門、南町門を守り米代四ノ丁栃木邸を屯営と為す」ある。

 会津藩に属した水戸兵は、3日に、外郭花畑口門(現米代二丁目の市営住宅)、南町口門(同米代二丁目の南町交差点北側)の守備に就いている。その屯営は、八重の生家から南西約50メートルで、同じ米代四ノ丁に位置する栃木勘之丞(一五〇石)宅を充てている。そのことから、付近は焼失していなかったようである。

 さらに、新政府軍が鶴ケ城西側から攻勢をかける9月5日まで、会津藩は、城下の材木町や諏方神社にも屯営を置き、融通寺町に本営を置いていた。このため、城下の西から北西部は藩の支配地であり、少なくとも5日までは八重の生家も焼けずに残っていた可能性が高い。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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八重と凌霜隊
「昭和初期の西出丸」。八重は、石垣上から狙撃をしていた(個人蔵)

【2012年9月23日付】
 

 

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