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 照姫の活躍と八重 
 
 刀差して看護活動 城内の婦人まとめ監督


 照姫(てるひめ)は、飯野藩(現千葉県)出身、藩主松平容保(かたもり)公より2歳年上の義姉で、籠城戦では城内の婦女子をまとめ、心の拠(よ)り所(どころ)となっていた。

 飯野藩は、会津松平家の祖で将軍徳川家光の異母弟保科正之(ほしなまさゆき)が、高遠藩(現長野県)藩主保科正光(まさみつ)の養子となり、後に山形藩主、会津藩主となったため、保科家を正光の弟正貞(まささだ)に継がせた二万石の小藩である。

 照姫は、本来は「熈(てる)」といい、天保3(1832年)12月13日、飯野藩九代保科正丕(まさもと)の三女として生まれている。同13年、10歳で会津藩八代松平容敬(かたたか)の養女となり、嘉永3(1850)年、18歳で豊前国中津藩(現大分県)十万石の奥平昌服(まさもと)に嫁いだ。しかし、子ができなかったことや病気のため、安政元(1854)年、23歳で離縁している。慶応4(1868)年2月、照姫は、江戸の会津藩総引き揚げで、初めて会津入りした。

 籠城戦での照姫の活躍は、『会津戊辰戦争』に詳しい。「照姫能(よ)く衆女(しゅうじょ)を督して内助に勉む、後殿(こうでん)之(これ)がために常に鎮静を保てり」とあり、照姫が多くの婦女子を監督していたため、後殿(奥御殿)は常に、平静だったとされる。

 城内の婦女子は「盡(ことごとく)髪を断てり、其(その)形恰(あたか)も雛(ひな)人形の如(ごと)く、頸窩(けいこう)(うなじの窪(くぼ)み)の邊(あたり)を剃(そ)りて髪を垂れたりといふ」と、ほとんどが断髪していた。婦女子の断髪は以前にも述べたが、八重が入城した23日に最初にしている。

 八重は、入城した翌日の8月24日、「照姫様の御側役(おそばやく)心得(こころえ)を仰付られました」と、近くで仕え、照姫の御用を果たす役職を務めていた。その後、八重は城内で病院となった大書院などへ、天守閣東側の台所から食事を運んでいる。

 また、『会津戊辰戦史』に「照姫は、奥殿の女中若年寄格表使、大野瀬山(せやま)(大野四郎五郎叔母)、御側格表使根津安尾(根津八太夫妹)等に命じ、奥女中及び傷病者の家族、藩士の婦人等を指揮して看護と炊事とに従はしむ、婦人は皆照姫の誠意に體(たい)し、門閥(家格)の婦人に至るまで黒衣(黒紋付)に白衣(白無垢(むく))を重ね襷(たすき)を掛け裙(すそ)を高く掲け両刀を佩(お)びて之に従事し、其の動作の勇壮なる男子に耻(は)ぢざるの状ありき」と、黒紋付に白無垢を重ね、襷を掛け、刀を差して看護活動をしていた。八重も同様で、この時の看護活動は、その後の人生に影響し、日清、日露戦争の篤志看護婦として活躍する原点ともなった。 

 9月22日の開城後、照姫は、城の北東3キロにある妙国寺に、容保と養子の喜徳(のぶのり)とともに蟄居(ちっきょ)した。明治元年10月19日、容保らは、東京へ護送となるが、照姫は、会津に残り翌2年に東京・青山の紀州藩邸預けとなった。

 照姫は、明治17(1884)年2月28日、小石川の保科家にて53歳で病死。法名は「照桂院殿心誉香月清遠大姉」。東京都新宿区二丁目の浄土宗正受院に埋葬された。容保も同じ場所に明治26年埋葬されたが、大正6年8月20日、会津若松市東山町の会津藩松平家墓所に改葬されている。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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照姫の活躍と八重
千葉県富津市の「飯野藩陣屋跡」。日本三大陣屋の一つで、堀と土塁がめぐらされている

【2012年9月30日付】
 

 

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