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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 城内の病院 
 
 捨てた繃帯再利用 照姫は衣服を治療に提供


 八重の生家から北に200メートルほどの日新館では、北関東まで戦いが及んだ慶応4(1868)年4月以降、会津藩以外の旧幕府歩兵伝習隊や純義隊など諸隊の傷病者も受け入れ、治療に当たった。

 『戊辰戦争見聞略記』によると、桑名藩は津川方面(現新潟県)から来て8月16日、興徳寺(会津若松市神明通り東側)に入った。傷病者が日新館に行くと、「天下ニ一、二ヲ争フ名医」と称された松本良順(りょうじゅん)の治療を受けた。「コノ医ノ手ニ触テ癒サル者ナシト言」と、名医ぶりを記している。

 日新館での治療には、多くの婦女子の応援も欠かせなかったことから八重は、籠城戦に突入する以前は自宅近くの日新館へ行き、看護活動をしていたと思われる。

 『会津戊辰戦争』からは、日新館での治療、看護活動が過酷を極めたことが判(わか)る。「當時は消毒薬や防腐剤等なかりしを以(もっ)て、膿血(のうけつ)腐敗し、悪臭実に鼻を衝(つ)きしが、君公御父子時々御見舞下されたので、傷病兵も常に感涙に咽(むせ)んで居つた。実際、幕府の西洋医たりし、松本良順等来りたる、携へ来れる衛生材料も欠乏し」。現場では膿(うみ)や血が腐敗し、悪臭が漂うほどだった。傷病者が救いとしたのは、松平容保(かたもり)親子が病人を見舞い、元気づけたことであった。

 しかし、良順は新政府軍が城下に進攻すると、若松を去る。『庄内戦争録』によると、8月25日には、新選組の土方歳三らと米沢城下に移っていたことが判明している。

 さらに、8月23日以降の籠城戦において、八重のいた城内は悲惨だった。
 『会津戊辰戦争』には会津藩士河原勝冶の記録として、「籠城するに及んでは益々(ますます)傷者多数となり、欠乏に欠乏、如何(いかん)ともし難く、私の叔父原惣五郎(百三十石)も一日身體を洗ひ居たる際、流玉来て其(そ)の背より貫き入りければ、小柄(こづか)にて自ら弾丸を剥りとり、繃帯(ほうたい)なきゆゑ布片にて包み、遂(つい)に傷口腐敗して死亡せり」という。

 また、会津藩士夫人の酒井たかは『籠城中の思ひ出』として次のように述べている。

 「負傷者の加はるに従つて繃帯の不足を生じたので、大書院の縁の下に捨てた血や膿のついた繃帯を、御馬場の大盥(おおたらい)に水を汲(く)んで、足で踏んで洗ふことは、大変難渋の仕事でありましたが、衆に先だつてその事に当たられた中野さん(こう子、竹子の母)の美はしく凛々(りり)しい様子が、今でも目に見えます」

 八重も『会津戊辰戦争』の中で、「就中(なかんずく)、中野こう子さんの働き振りは一際(ひときわ)目立つて居て、城中何れ(いず)も嘆賞して居りました」と称賛している。八重は、こう子の姿を見習いながら負傷者の手当てをするなど、看護活動が後の人生に大きな影響を与えた。

 籠城戦では、病室となった本丸南側の大広間や小書院、大書院は約600人の傷病者であふれ、一度使用し大書院の縁下に捨てた繃帯までも再利用していた。

 前述した照姫は、「奥女中をして、貴重な衣帯(いたい)を出し、之(これ)を解きて其の白布を以て繃帯と為さしめ、或(あるい)は傷病者の衣衾(いきん)に充てしむ、故(ゆえ)に兵卒にして葵章の衣を着け或は、壮士(そうし)にして婦人の美服を着來くるに至り」(『会津戊辰戦史』)と、自分の衣服を惜しげもなく治療用に提供していた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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城内の病院
松本良順の墓。新島襄終焉(しゅうえん)の地近くの神奈川県大磯の妙大寺にある

【2012年10月7日付】
 

 

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