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 藩主松平容保と八重 
 
 砲弾携え構造説明 黒服で男装、奇抜な女傑


 八重は籠城戦中、「私は即(すなわ)ち三郎(弟)だといふ心持で、その形見の装束を着て、一は君主のため、一は弟のため、命のかぎり戦ふ決心で城に入りましたのでございます」(『男装して会津城に入りたる当時の苦心』)と述べている。八重は今回の籠城戦を、藩主松平容保(かたもり)と弟の敵討ちのために戦おうとしていた。

 藩主容保は天保6(1835)年12月26日、高須藩(現岐阜県海津市)三万石の六男として江戸四谷(現新宿区)に誕生。後に叔父の会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり九代藩主に就いた。籠城戦中、大砲の弾が直接当たらない、頑丈な天守閣南側の黒鉄(くろがね)門付近にいたことは前述した。

 会津藩士で明治学院の二代総理となった井深梶之助が昭和9年に語った『戊辰回顧談』には、「(容保公が居られたのは)平素の御居間ではなく、黒鉄門の内でありました。(中略)最も安全な場所であつたからであらうと思はれます。即ち此(この)門は北に面して居て、天守閣の蔭に成つて居て、北方から来る砲弾から蔽(おお)はれ居り、東西両方面は門の石壁で防禦(ぼうぎょ)され、南方は比較的安全である上に、米俵を高く積上げ、只出入口が狭く開けてあつたのであります」というように、北は黒鉄門、東は走り長屋の石垣を背にし、西も石垣が囲み、南は門の外側(本丸側)に小石や土を入れた米俵を高く積み上げて壁を作り、狭い入り口を設けていた。

 「而して両殿様(藩主容保公と養子喜徳(のぶのり)公)は東側の石壁を後にし、一段高い所に御二方(ふたかた)御並で椅子に御腰掛に成つたやうに記憶します。夜分ドウ成されたか記憶はありませんが、多分そこに御夜具を延て御寝遊ばされた事と察します」

 容保らは、東側走り長屋の石垣を背にし一段高くした場所に椅子を置き、座っていた。夜は、そこに寝所を設けたとみられる。屋根は、黒鉄門の庇(ひさし)を利用し、南側から雨が入らないようにしていたと思われる。

 八重は、城内の子どもたちに夜襲に連れて行くようにせがまれ、藩主容保に直接相談しているが、他にも会う機会があった。『戊辰回顧談』の中で、八重の女丈夫(じょじょうふ)(女傑)ぶりを紹介している。

 「敵の砲撃が少し緩んだ時の事でありますが、未だ若い一人の女性が大砲の弾丸を手に携へて、両公の御前に出ました。そうして、その中に畳込めてある鉄片を分解して、その構造を説明致しました。此(これ)は其(その)事夫(そ)れ自体が驚異に価する事柄でありましたが、此(この)妙齢の女性は断髪、男装で、而(しか)も黒羅紗のマンテルに同地のズボンを穿(は)いて居ました。此奇抜な女丈夫は、誰かとなれば、山本覚馬氏実妹、彼の京都同志社々長新嶋襄夫人、八重子刀自(とじ)(年配の女性)で、数年前八十有余の高齢で逝去せられました」

 砲弾は、二つに分かれるアームストロング砲の砲弾とみられるが、分解はできないので、木の導火線や火薬の場所などの構造を藩主に説明したものである。八重の服装は、射撃や砲撃の時には、白虎隊と同じ黒の洋装であったことが判(わか)る。城内の男性は、八重を女傑と思っていた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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藩主松平容保と八重
本丸から見た黒鉄門南側。容保らは城内で最も安全だったここに石垣を背に座っていた

【2012年10月14日付】
 

 

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