minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 会津の華は凜としてTOP 】
 城外からの食糧調達と八重 
 
 決死の覚悟で確保 敵兵の狙撃、夜間に逃れ


 以前にも触れたが、籠城戦での食糧確保は、会津藩にとって大問題であった。『若松記』によると、「二ノ丸ノ社倉(米蔵)ヲ開ヒテ運ハシム。此(この)玄米ヲ以(もっ)テ、城中ノ飢ヲナサシメス賄フト云(いう)」とある。米は二ノ丸の蔵に保管されていたので、何とか飢えは凌(しの)げたが、米以外の食糧調達の困難さと同時に、会津武士道について八重は、『会津戊辰戦争』の中で次のように証言している。

 以下に詳述する。

 「南摩綱紀(なんまつなのり)の甥(おい)節(みさお)は暁霧(ぎょうむ)に乗じ、副食物の捜索に城南から出(い)で、南瓜(かぼちゃ)を澤山(たくさん)集めて帰城の途中、南門(三ノ丸南門)附近に於(おい)て、小田山の砲弾のため右大腿骨(だいたいこつ)を粉砕され、人に擔(かつ)がれて来ましたが、腰が立たゝぬので、妾(わたし)は大き石に倚(よ)りかゝらせ、草鞋(わらじ)をとり、袴(はかま)を脱がせ手當(てあて)をしてやりましたが、少しも泣かず又(また)、痛いともいひません。其時(そのとき)櫓(やぐら)の處(ところ)より見て居た南摩家譜代の従僕が大に驚き馳(は)せ来り、此惨状を見ると声を放ち泣き出しました。然(しか)るに節は此時十五才でしたが、従僕に向ひ『見苦しい泣くな、武士は仕方がないじやないか』と、いと謹厳な元気ある声にて之(これ)を戒めてあつた。然し此勇敢な節も出血多量のため遂(つい)に死亡しました。妾も此子の元気には感心してあつた」

 八重は、15歳の少年が決死の覚悟で南瓜を取りに行った帰りに敵の砲撃を受け、瀕死(ひんし)の重傷にもかかわらず、会津武士として最後まで「痛い」と言わなかったことに驚いた。この時、八重は節の死を弟三郎の死と重ね合わせていたのかもしれない。

 南摩綱紀は、会津藩士で後に東大教授となった教育者。甥の節は、敵の守備が薄かった三ノ丸の南側から、他の会津藩兵同様に出入りしたものだが、安全とは程遠いものであった。『辰之日記草稿』によると、三ノ丸の南にあった建物は、「(8月23日)延寿寺、御宮、豊岡御社等ヘ火ヲ掛タリ」と、会津藩兵が延寿寺、東照宮、豊岡神社へ火を掛けて焼失させたため、遮蔽(しゃへい)物がなく、東に1400メートル離れた小田山からもよく見えた。そのため、通過する者がいると、小田山から大砲で狙い撃ちにされた。

 また、越後高田藩(現新潟県上越市)の飛び地があった今の白河市釜子(かまのこ)から入城した越後高田藩士は、『戊辰の役釜子藩会津戦参加の顛末(てんまつ)』に「決死隊を募り、城外に夜打を試み、戦死者の携帯した弾薬と兵糧の取入をやり初めた。夜陰に乗じて城門を開き、決死隊が忍び出る。無事、帰つて来ても、敵兵の混入を恐れて、夜明までは城門を開かないから、城門まで辿(たど)り着いた決死隊は追撃せる敵兵の為(ため)に、屡々(しばしば)狙撃された」とある。一旦(いったん)、夜城門を出れば、明け方まで城へ入ることができず、敵に見つかれば狙撃される覚悟だった。

 さらに、新政府軍の『維新戦役実録談』には、「食ふ物がないから、侍屋敷の池抔(など)には鯉(こい)、鮒(ふな)が飼つてあつたから、人足を連れて行つて夜の明けない内に魚を捕らうとすると、半途で向ふ(会津藩)のやつが城から味噌(みそ)や香の物抔を取りに来るといふ様な滑稽もあつた」。会津藩兵は鯉や鮒だけでなく、味噌、漬物も城下の屋敷から決死の覚悟で調達していた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

>>> 30


城外からの食糧調達と八重
鶴ケ城三ノ丸南門跡。八重もこの門から入城している

【2012年10月21日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN