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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 小田山からの砲撃 
 
 鶴ケ城最大の弱点 尚之助反撃、八重協力


 会津藩は籠城戦で、天守閣から南東に約1400メートル離れた小田山からの砲撃に悩まされた。城を見下ろすような位置にある小田山は、鶴ケ城にとって最大の弱点であった。そのことは、文禄元(1592)年に、当時、領主の蒲生氏郷も気付いていた。氏郷は別な場所に広島城を模した城を築こうとしたが、徳川家康に止められている。その後に会津を治めた上杉景勝も広島城を模した神指城を築こうとしたが、関ケ原の戦いで未完となったことは有名だ。

 小田山の中腹には、肥前藩(佐賀藩、鍋島藩とも)、薩摩藩、松代藩によって砲陣が構築された。砲陣跡と本丸との比高差は、約140メートルあり、鶴ケ城の東側部分を見渡せた。『旧夢会津白虎隊』によると、小田山は8月25日の正午すぎに占領されたという。約700メートル離れた極楽寺の僧が、小田山までの道案内をした(『会津戊辰戦争』)。小田山からの砲撃があまりに激しく落城の一因となったため、道案内した僧を怨(うら)んだ会津藩士武田宗三郎は、明治時代にこの僧を襲って殺害、自分も捕まり処刑されている。

 26日、『若松記草稿』には「敵、小田山或(あるい)ハ山下、建福寺門前ヨリ大小炮発スル、雨ノ如(ごと)ク。別撰組、延寿寺庭山ヲ楯トシ発炮、天神口ヨリ。隊大砲ヲ発シテ応戦ス」とある。

 会津藩も小田山の砲陣と約900メートル離れた三ノ丸南の豊岡神社・延寿寺付近に大砲を据えている。『会津戊辰戦争』に、「我が兵天神口より四斤砲を連射して応戦す」とあるように、会津藩は先込めで、射程約1000メートル、砲弾の重さが4キロの四斤砲で応戦した。朱雀三番寄合組は、小田山に登り薄暮戦を展開したが、小田山を奪還することはできなかった。同じく、会津藩士木本内蔵之丞は、隊士58人を引き連れ、小田山に進撃すること2回、成功せず内蔵之丞は負傷し29日、城中で亡くなっている。

 27日、『会津戊辰戦史』には、「大砲隊士戸枝榮五郎、鯨岡平太郎及び川崎尚之助等野戦四斤砲を南門外、天神口に装置して、小田山を迎撃す。西軍大に苦しむ」と、この日の会津藩の砲撃は、小田山の敵陣へ正確に届き、苦しめたことがうかがえる。

 前述したように『会津戊辰戦争』には、「東軍砲兵毫も屈せず、士気益々(ますます)振ひ活気横溢(かっきおういつ)其(そ)の気、天を貫くの概あり、砲術師川崎壮(尚)之助時に豊岡にあり、性沈毅能(せいちんきよ)く衆を督して戦ふ、山本八重子曩(さき)(以前に)に兄覚馬に就て砲術を練習し、其の技に長ず、終始男子に伍して、奮闘甚だ務む」。大砲の扱いに長けた八重の夫、川崎尚之助は、豊岡神社において、八重の協力のもと奮戦、大砲の操作を兄の覚馬から習得していた八重も男子と同じような働きをした。

 しかし、攻撃は激しさを増し、『会津藩大砲隊戊辰戦記』によると、「廿八日、同所守備。小田山の砲声殊ニ劇(はげ)シク、鍋島藩ノ用ユル元込砲ノ威力猛烈ナリ。当時ハ多ク山砲四斤ノ先込砲ニシテ、僅(わずか)ニ野戦四斤ヲ有スルニ過キス。元込砲ノ輸入セラレタルモノ二、三門ニ過キス」

 肥前藩が小田山に運び上げた元込め砲は、当時数少ないアームストロング砲の改良型であった。射程は3000メートル、命中精度が高く、天守閣の壁を貫通するなど威力もあり、城内を苦しめた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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小田山からの砲撃
小田山西軍砲陣跡。大砲を据えた跡が残っている

【2012年10月28日付】
 

 

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