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 新島襄との結婚 
 
八重は理想の女性 西洋的な考え京都初の洗礼


 八重の兄覚馬は、戊辰戦争以後、京都の産業振興には欠かせない人物となっていた。京都府が明治3(1870)年3月28日、兵部省へ提出した『山本覚馬登庸伺』によると、「府下(京都府)に山本ほど海外事情に詳しい者はいない」という理由であった。覚馬は、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩邸に捕らわれ、その最中、『山本覚馬建白』、いわゆる『管見』を薩摩藩へ提出し評価されたためでもあった。ほとんど眼(め)の見えない覚馬に代わり、当時17歳の会津藩士野沢鶏一(けいいち)が、口述筆記した。鶏一は後に渡米し、イェール大学で法律を学び、神戸地方裁判所の判事などを歴任した。

 覚馬や八重は、会津藩が薩摩、長州藩に敗れたことから、新政府が牛耳る政治や軍事分野で生活していくことが容易でないと知り、教育面で新しい時代を切り開こうとした。覚馬はかつて、会津藩主松平容保(かたもり)の京都守護職時代に、京都御所の西、「西洞院上長者町上ル、一向宗の寺」長徳寺(現京都市上京区)で蘭学や英学を教える洋学所を開き、諸藩の者に開放したこともある。

 八重は、明治5年に開校した日本最初の女学校「女紅場(にょこうば)」の権舎長兼教導試補として就いていたが、そこへ新島襄が訪ねた時(明治8年)、襄は八重に対し、「よくそんなむつかしい本を習っているな」と英語のテキストを見て驚いたという。(『新島八重子回想録』)

 明治8年4月、覚馬は、京都を訪れた宣教師M・L・ゴードンから、プロテスタントの教えを中国語で書いた『天道遡原(てんどうそげん)』を贈られ、深い感銘を受ける。覚馬は「わたしにも明け方の光がさしてきた。今やわたしには、以前には全く分からないでいた道が見える」(『新島襄からの手紙』)と話したという。八重は、ゴードンの宿所を訪ね、聖書を教えてもらい、盲目の覚馬へ『マタイ伝福音書(ふくいんしょ)』を読んで聞かせたという。そのゴードンが、襄を京都へ呼び寄せ、覚馬と八重との接点になる。

 6月7日、覚馬は京都の教育振興のために襄へ、薩摩藩の屋敷跡(現同志社大学の地)を学校用地に提供することを約束した。そして6月末に襄は、八重が同居する覚馬宅へ移り住み、学校設立の準備に取り掛かった。ここで八重と襄は親しくなる。襄は現在の群馬県安中市にいた父親に手紙を書き、八重を「日本の女性の如(ごと)くなき女性」と、当時の女性とは異なり、西洋的な考えを持った理想の女性であると知らせている。

 明治8年8月、襄は『私塾開業願』を京都府に出し、英学校の創立に動き出す。しかし京都は“仏教の町”であり、反対運動も起こるなど、開校までには覚馬の協力がなければ難しかった。

 同年10月15日、八重と襄は婚約する。翌年1月に八重は、京都御苑内の宣教師J・D・デイヴィス邸において京都初の洗礼を受け、翌日、同邸でデイヴィスの司式により襄と結婚式を挙げた。日本の伝統文化の象徴的な町、京都において、西洋文化を受け入れる八重を京都の人たちは、奇異な眼で見ていた。しかし、会津藩の敗北という思いが根底にあった八重は意に介さず、明治という新たな時代を見据えていた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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新島襄との結婚
京都、同志社大学今出川キャンパス

【2013年1月27日付】
 

 

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