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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 新島襄の会津再訪 
 
 熱心な信者宅訪問 英学校開校準備の途中


 八重が明治15(1882)年7月から8月にかけ会津に滞在していた時、若松は活気がなかった。襄が書いた『遊奥(ゆうおう)日記』によると、「市人ハ旧藩ノ圧抑(あつよく)ヲ受ケタルニヨリ、更(さら)ニ改進ノ精神ナク、新奇(しんき)ノ事ヲ為(な)シ肯セズ、唯旧ヨリノ商売ヲ為スノミ」。会津の人々は新たなことを受け入れず、旧態の商売をするのみだったという。八重はこの時、戊辰戦争で焦土と化した武家屋敷跡を見て、藩政時代に繁栄していた城下と比べ、時代の大きな変化を感じていたことであろう。

 八重が若松に滞在中の8月17日、宿泊していた七日町(現会津若松市七日町)の清水屋の分家に当たる栄町(現会津若松市栄町)の清水屋において、喜多方の下柴村(現喜多方市関柴町)出身の自由党員宇田成一らが、旧会津藩士を中心に組織された政府側の帝政党員によって襲撃される事件が発生した。宿から徒歩で十分ほどの距離にあることから、八重も事件の一部を目撃したかもしれない。『遊奥日記』には「堺(栄)町清水屋ノ二階ニテ会議ヲ開キ、其(その)夜、夜モ少シ更(ふ)ケ各一睡セシ折、何人カ蝙蝠(こうもり)傘、棒チギリヲ持チ来リ」と書かれている。

 さらに、襄は23日に喜多方の宇田を訪ねている。宇田の自宅は隠し部屋があり、2階への上り階段は一カ所だが、隠された下り階段が三カ所あり、いつでも逃げられる特殊な造りとなっていた。「之(これ)ヲ穏便ニ付シ敢(あえ)テ告訴セザリシ」とする宇田に対し、襄は「是非(ぜひ)トモ告訴スベシト勧タレドモ、同氏ハ固執シテ聞カズ」と告訴を勧めたが、宇田は聞き入れなかったという。一連の言動から推察すると、襄も自由民権運動に賛同していたと思われる。

 襄は、明治19年に再び会津を訪れる。県内に鉄道が開通していなかったことから5月21日、人力車で郡山まで来て、22日に上戸(現猪苗代町)に出て、舟で戸ノ口(現会津若松市湊町)に渡り、23日、人力車で七日町に着いている。

 この時、襄は熱心なキリスト教徒の中村舡蔵(こうぞう)宅を訪れた。さらに上一ノ町(現会津若松市上町)の風間久磨宅では256人の信者が集まり、24日には、喜多方の安瀬敬蔵宅に100人以上が集まっている。翌日、襄は米沢から福島を経由し仙台を目指した。

 もともと襄は、宮城英学校(東華学校の前身)の開校準備のために会津へ立ち寄ったもので、初代校長は襄である。「真理を求め善をなせ」を趣旨に設立されたが、明治25年には廃校となり、宮城県第一中学校に編入されている。

 八重は、宮城英学校開校時に仙台へ行ったが、会津には寄らず、直接現地に向かっている。当時、八重は6月に同志社病院の仮診療所の開設、日本で最初の看護婦養成機関となった京都看護婦学校の開設などが重なり、多忙であった。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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新島襄の会津再訪
襄が訪ねた七日町の中村舡蔵宅跡(現滝谷建設工業)

【2013年2月10日付】
 

 

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