ボタンの魅力伝える“名勝”
薬用から観賞用へ市民に広く開放
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200年超す古木
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「江戸時代の地割りの跡が残り、優秀な花を咲かせる」。これが国の名勝指定の理由に。200年を超すボタンが花を咲かせる姿は、まさに「百花の王」にふさわしい
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1766(明和3)年、須賀川の薬種商、伊藤祐倫が牡丹(ぼたん)の根を薬用にするために、摂津国(現在の兵庫県宝塚市)から苗木を持ち帰り栽培したのが始まり。
明治初期に柳沼家が牡丹園を譲り受け、薬用から観賞用へとその目的を変え、種類、株数を増やしていった。1932年には国の名勝に指定された。牡丹園を2度訪れた作家吉川英治は「東洋一」と称賛している。
57年に牡丹園は柳沼家から須賀川市へ譲渡され、現在は須賀川牡丹園保勝会と市が中心となり、園内を管理している。約10ヘクタールの園内には、290種7000株のボタンが栽培され、全国でも珍しい、樹齢200年を超える在来古木がある。
11月には天寿を全うしたボタンの枯れ木を供養する「牡丹焚火」が行われ、これは俳句歳時記の季語にもなっている。
東日本大震災では、池の堰堤(えんてい)、池に架かる橋などが壊れた。
(須賀川牡丹園保勝会(電)0248・73・2422) |
人を支え、先人たちの思いを伝える |
橋本 公助(はしもと・こうすけ)さん/須賀川牡丹園保勝会管理次長
園内には先人たちが大切に守り、育ててきた200年を超える古木があります。現在の牡丹園の原型をつくった柳沼源太郎は「ボタンとともに起き、ボタンとともに寝た」と言われるほど、栽培に情熱を注ぎ、国の名勝指定も受けました。私はボタンを栽培して38年になりますが、花が咲いたときは、今年もまた、後世に伝えることができた―との思いを強くします。
牡丹園には毎年6万人近い人が来園します。案内役を務めてくれるのは市民ボランティア41人です。2004年には市民の寄付で市民牡丹庭園が誕生し、530株以上が園内を彩っています。市民に支えられ、市民とともに牡丹園は発展しています。
被災者が来園された折、「ボタンを見ていたら気持ちが晴れました」と言われ、ボタンの花を咲かせることで心に元気を与えることができるとあらためて感じました。先人たちの思いを大切に、多くの人の支えになれるよう、これからも花を咲かせ続けていきます。
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壊れた堰堤
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市民に親しまれている牡丹園。震災では園内の池にかかる橋と堰堤が壊れた(2011年3月18日撮影、須賀川市提供)
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福島民友新聞社は、ふくしま復興支援プロジェクトの一環として、2012(平成24)年10月から13年5月まで、「ふる里の誇り ふたたび 福島遺産 百選 未来への歩み」を連載しました。
「福島遺産 百選」は、県内それぞれの地域で「ふる里の誇り」として守り継がれてきた有形無形の宝を後世に残していこうと、福島民友新聞社が07年に県内外に呼びかけ、選定しました。
しかし、計120件のうち31件の遺産が東日本大震災で被災しました。本プロジェクトは、あらためて地域の素晴らしい宝を再認識することで県民一人一人の誇りを取り戻し、「心の復興」につなげていくことを目的としたものです。 |
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ふくしまが誇る美しい自然、歴史、文化 |
地域の宝を復興の力に |
震災に耐えて |
東日本大震災に耐え、被害を免れた福島遺産もあります。これらは地域で県民に勇気と希望を与え続けています。
大内宿と下野街道(下郷町)
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下野街道は会津と江戸を結ぶ主要道として開かれ、関東では「会津西街道」と呼ばれた。大内宿は下野街道沿いに整備された宿場の一つで、全長約400メートルの道の両側にかやぶき屋根の民家が整然と並び、宿場の面影を今に伝えている。(大内宿観光協会(電)0241・68・3611)
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矢祭山(矢祭町)
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矢祭山の奇岩怪石は久慈川の清流と共に「東北の耶馬渓(やばけい)」と称され、一帯が奥久慈県立自然公園に指定されている。公園内ではあゆのつり橋、5万本以上が自生する山ツツジなど、自然のつくり出す景観が楽しめる。(矢祭町観光協会=矢祭町事業課内=(電)0247・46・4575)
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