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こころに残す ふくしまの風景
阿弥陀寺
(会津若松市)
会津人となった新撰組の斎藤一
阿弥陀寺
阿弥陀寺境内には斎藤一の墓のほか、戊辰戦争殉難者の慰霊碑、鶴ケ城から移設された「御三階」などがある
 七日町駅を降り、観光客でにぎわう大正ロマン調の七日町通りを横切ると、周囲のけん騒と一線を画する厳かな寺構えの阿弥陀寺がある。後半生を会津人として生きた新選組三番隊組長斎藤一(1884−1915)の墓のほか、約1300人の会津藩戦死者が眠る戊辰戦争殉難者の慰霊碑が建っている。
 斎藤一は、御家人山口祐助の二男として江戸で生まれた。初名は山口一。のちに斎藤一とあらためた。
 1863年、壬生浪士組(のちの新選組)に参加し、副長助勤、三番隊組長として活躍。沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で、剣術師範も務めた。
 一時、新選組を脱退した伊東甲子太郎らとともに新選組を離脱するが、新選組に復帰し、山口二郎と改名。鳥羽伏見の戦いなどを経て、会津にたどり着いた。近藤はすでに亡く、負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となった。
 西軍が城下に迫った時、仙台へ向かおうとする土方と意見が対立し、「会津侯(松平容保)あっての新選組。会津を見捨てることはできない」として隊士十数人と会津に残った。
 その後、藤田五郎を名乗り、会津藩元家老の山川浩と佐川官兵衛が下仲人、松平容保の媒酌で元会津藩大目付高木小十郎の娘時尾(ときお)と結婚した。 
 会津史学会の間島勲副会長は「斎藤が一介の元新選組隊士でしかないとすれば、旧会津藩の重臣や藩主が関与するだろうか」と指摘。「もともと会津藩の人間で、何らかの事情で新選組に入っていたのではないか」と自説を展開する。
 事実、警視庁警部を務めた藤田(斎藤)は、72歳で永眠後、本人の希望で多くの会津藩士が眠る阿弥陀寺に葬られた。最後までなぜ会津にこだわったのか、ロマンは尽きない。
 七日町通りまちなみ協議会の渋川恵男会長は「阿弥陀寺は会津の地を命懸けで守ってくれた会津人の菩提寺とも言える。七日町通りはいわば参道。皆さんが年に一度寺を訪れ、先人に手を合わせてくれるようになれば」と期待を寄せている。 
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 会津若松市のJR只見線・会津鉄道七日町駅で下車するとすぐ。磐越自動車道会津若松インターチェンジから車で約20分。近くには観光会津を代表する老舗が並ぶ。七日町通りから神明通りを南に向かうと、戊辰戦争で激戦が繰り広げられた鶴ケ城がある。
<43> 2004.02.13
 

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