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こころに残す ふくしまの風景
母成峠古戦場
(猪苗代町)
西軍3000人と激突、新選組6人戦死
母成峠古戦場
周囲を雪に覆われた古戦場記念碑。土方ら新選組隊士もこの地で板垣退助らの率いる西軍と衝突した
 1868(慶応4)年、幕藩体制の打倒を目指す西軍と旧幕府軍(東軍)が戦った戊辰戦争は、会津若松だけでなく、猪苗代や郡山でも激しく繰り広げられた。母成峠は土方歳三率いる新選組を中心とした東軍約800人と西軍約3000人が激突した古戦場として知られている。
 土方は京都から転戦しながら会津に入った。戦闘で負った傷をいやして新選組隊士と合流、戦列に復帰した土方は、母成峠の防衛に当たった。
 西軍の主力部隊は、郡山方面からの敵の進軍を想定していた東軍の予想に反して、同年8月、母成峠から侵攻した。圧倒的な敵勢力を前に、東軍はなすすべもなく敗れた。母成峠の戦いでの東軍死者は88人で、そのうち新選組隊士は6人を数える。
 西軍は怒とうのように会津若松に押し寄せた。飯盛山で起きた白虎隊の悲劇は、西軍の母成峠突破からわずか2日後の出来事だ。
 峠は現在、母成グリーンラインが通っている。頂上付近の駐車場には「母成峠古戦場」の記念碑、少し離れた旧幕府軍兵士の埋葬地には「東軍殉難者慰霊碑」が建ち、戦いの激しさをしのぶことができる。
 戦死した東軍兵士の遺体は西軍の命令で埋葬が許されず放置され、地元民によって、埋葬されたという。明治維新以後は雑草に覆われていたが、1978(昭和53)年になって地方史研究家が発見した。
 戦いに散った東西両軍の兵士100余人の霊を弔うとともに、この戦跡を長く後世に伝えるため、東軍殉難者の子孫や縁故者、趣旨への賛同者で組織した母成弔霊義会(秋山仁市会長)が中心となって、82年に2つの碑を建設した。
 戦場となった農村からは、西軍の先導役として連行され、戦死した人も多い。母の先祖がその一人だったという郡山市の佐藤兵一熱海史談会長は「戊辰戦争は複雑な内容を含んでいて、理解しにくいものがある。勝者の大義名分も敗者の理由も、その地域を支えてきた民衆には、あまりにも手前勝手な仕打ち」としみじみ語る。 
 >>> 行ってみよう
 磐越道磐梯熱海インターチェンジから県道中ノ沢熱海線に入り、郡山石筵ふれあい牧場方面へ、母成グリーンラインを通って車で約20分。安達太良連峰や磐梯山、遠く吾妻連峰までの壮大な景色が楽しめるルート。
<44> 2004.02.20
 

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