【興福寺と会津】興福寺・多川俊映貫首に聞く(中)徳一まいた仏教の種

 
たがわ・しゅんえい 奈良市出身。立命館大文学部哲学科心理学専攻卒。1989(平成元)年から興福寺貫首を務める。「天平の文化空間の再構成」を掲げて、伽藍(がらん)復興に取り組み、昨年10月には江戸中期に焼失した中金堂(ちゅうこんどう)を落慶した。72歳。

 県立博物館で開かれる福島復興祈念展「興福寺と会津」の副題は「徳一(とくいつ)がつないだ西と東」。平安の昔、興福寺に学び会津に教えを伝えたとされる徳一について、興福寺の多川俊映貫首(かんす)に聞いた。(聞き手・編集局長 小野広司)

 ―会津に慧日寺(えにちじ)(磐梯町)や勝常寺(湯川村)を開いた徳一について話を進めたい。奈良で学び、会津で仏教を広めた徳一とは、どんな人物だったのか。

 「私たちは徳一菩薩(ぼさつ)と呼んでいる。民衆の中に分け入り、仏教の教えを広めた菩薩として尊んでいる。ただ、徳一に関する資料は少なく、とにかく謎が多い。それでも法相宗(ほっそうしゅう)の相当な学者であることは確かだ。最澄(天台宗、伝教大師)や空海(真言宗、弘法大師)ら当時の一流の高僧と交わりを持ち、対等に論争していた」

 ―興福寺は、法相宗の大本山だ。徳一が学んだ法相宗とはどんな教えか。

 「法相宗とは、あらゆる事柄を心の要素に還元して考える唯識(ゆいしき)という立場だ。一種の唯心論であり、かなり心理学的な分析をしながら、少しずつ仏に近づいていこうとする。一方で、最澄は誰もが仏の境界(きょうがい)に行き着けるという。そこで意見の相違が生まれ、論争が起こった」

 ―高い学問的知識を身に付けた徳一がなぜ、奈良を去って会津に来たのか。

 「時代を問わず、民衆の中に入っていく生き方を求める僧侶は少なくない。仏教は慈悲と智慧(ちえ)の宗教だ。学べば学ぶほど、慈悲が大切だと分かってくる。慈悲を実践しようとすれば、外へと出掛けていくしかない。ただ、多くの人が考えるように、徳一は一人とぼとぼと東を目指したのではないと、私は考えている。仏の教えを伝えるというミッションを帯びた一団として東に向かったのではないか」

 ―プロジェクトチームが動くというイメージか。

 「そう。徳一が創建した勝常寺の仏像は、非常に優れた出来栄えだ。それまで仏像を手掛けたことがない人が造ったとは、とても思えない。都で働いていた仏師が関わったはずだ。それに、お堂を建てるとなれば宮大工もいる。少なくとも、高い技術を持った人が指導者として一団の中にいたはずだ」

 ―当時の仏教は、国を平穏にする、世の中を平和にするという意味合いが強い。

 「日本の仏教は、そこから出発している。律令と仏法が車の両輪になって国家を動かしていた。そういった考えは次第に薄れていくが、仏教によって救済されるという思いは生き続け、それが仏像という形に定着していった」

 ―徳一が慧日寺や勝常寺などを建立し、仏教は会津で隆盛を誇った。その後、勢いが衰えた時期もあったが、今、「仏都(ぶっと)会津」を再興しようとする動きが大きくなっている。

 「それぞれの場所で仏教という種がまかれた。一度根付いた仏教は、決して絶えることはない。雨に例えることもできる。雨は地面に降り注ぎ、土に吸収され、伏流水となる。目に見えないが、何百年にもわたって脈々と流れ続ける。やがて、どこからか湧き出てくる。慧日寺も忘れられようとしていた。だが、地元磐梯町の努力があって、再び世に現れた。この動きが、さらに深められることを期待したい」