【MEET THE 仏像】(3)小説家・澤田瞳子さん

 

「仏師が自分の意思を持ち、能力を発揮して生き生きと活動していた」

 著書に平安時代末期の奈良・興福寺を舞台にした歴史小説「龍華記(りゅうかき)」(KADOKAWA)がある小説家の澤田瞳子(とうこ)さんは、平家による南都焼き打ちと再建に向けた営みを描き、現代にも通じる人間ドラマに結実させた。失った仏像の修復に心血を注ぐ仏師の物語も描かれており、澤田さんは「仏師が自分の意思と能力を発揮して生き生きと動いていた」と時代背景を語る。

◆時代ごとに形がある

―「龍華記」を執筆したきっかけを教えてください。

 「興福寺への憧れが強く、約300年ぶりに再建された中金堂の落慶を記念して書きました。これまで古代を作品の題材にしてきましたが、古代から中世への変革期に強い興味を持ち始めたところでもありました」

―武装して寺を守る悪僧(僧兵)を主人公にしたのはなぜでしょう。

 「悪僧の実態はいまひとつ分かっていません。お寺に自衛団の要素がある僧がいて、非常事態に先陣を切って走りだして戦う人たちがいた。そこに戦う意味があったという背景をちゃんと描きたかったのです」

―本作を読んで、復興の物語だと受け止めました。

 「人が生きている時間は短いです。災害など深刻な出来事が起きたときは『これで終わりだ』と思ってしまいますが、長い歴史で見ると必ずよみがえっています。われわれは歴史を見ることで、復興にまで目が向く。そういうことも示せればいいなと思いました」

―南都焼き打ちは仏教美術という観点でも転換期になったのでしょうか。

 「恐らくたくさんの仏像が失われました。このため仏師を集めて仏像を作らせました。でも彼らは思うように働かない。仏師同士で『自分はこのお堂の仏像を作りたいんだ』ともめ事が起きていたといわれています。彼らは独自の考えを持って動いていた。仏師が自分の意思を持ち、自分の能力を発揮して生き生きと活動していたことが分かるのがこの時代だと思います」

―仏教美術への関心は。

 「われわれは今、ひなびた感じの仏像を見て『すごく日本らしい』と思うでしょう。しかし、作られた当時は彩色が施され、金箔(きんぱく)も張られていたわけです。われわれの視点と、かつての人たちでは仏像を見る目が違う。しかも仏像を作った人たちのことはもっと分からない。『仏師、仏像はどうだったのだろう』と知りたい思いが強いですね」

―今回の展覧会で興味が引かれる作品はありますか。

 「興福寺の国宝『法相(ほっそう)六祖坐像(ろくそざぞう)』です。モデルは資料上に名前は残っていても個性が分からない人たちです。(仏師集団の慶派を率いた)康慶が手掛けましたが、その想像力がどこから生まれ、仏像の個性をつくり上げたのかが興味深いです」

―「龍華記」には康慶の子で、鎌倉時代を代表する人気仏師の運慶の若年期も描かれています。彼らの残した優れた仏像の、どんなところを見ていますか。

 「全体的なフォルム(形状)でしょうか。時代ごとのフォルムがあります。運慶の作品は力強く、(運慶とともに鎌倉時代を代表する)快慶の作品には繊細さがある。一方、平安初期の仏像は肉体美を感じさせます。それぞれの時代で独自性があるのが面白いですね」

―興福寺は何度も火災に遭いながら、貴重な仏像を現代に継承してきました。

 「平安仏、奈良仏が数多く残っていることに驚かされます。焼き打ちのたびに仏像を避難させ、お堂を再建後には元のように納めてきた。仏像をしまい込まず、人々の尊敬を集めてきたからこそ、守り続けられたのではないでしょうか」

―今春の連載企画「私の中の若冲(じゃくちゅう)」に続いて登場いただき、ご縁を感じます。県民へのメッセージをお願いします。

 「会津若松市出身の新島八重(旧姓山本)が京都で暮らした縁もあり、福島に親近感がありました。福島の皆さんに瞬間的な意味で『頑張って』とは言いやすいでしょう。でも私は、細く長くかもしれませんが、これからも福島と一緒に歩んでいきたいという思いです」

 さわだ・とうこ 京都市生まれ。同志社大大学院文学研究科修了。専門は奈良仏教史。正倉院文書の研究などに携わった後、デビュー作「孤鷹(こよう)の天」で中山義秀文学賞を最年少で受賞。「満つる月の如し 仏師・定朝」で新田次郎賞、「若冲」で親鸞賞。近著に「腐れ梅」「火定(かじょう)」「落花」など直木賞ノミネート3度。

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