深夜一人で仕事に没頭 野村俊夫生誕115年・古関裕而生誕110年記念鼎談(2)

福島市が生んだ昭和を代表する作曲家・古関裕而。古関の幼なじみにして、後に名コンビとなって数々のヒット曲を世に送り出した作詞家・野村俊夫。今年は古関の生誕110年の年にあたり、きょう21日は野村の生誕115年の日にあたる。野村の長男鈴木克東さん、野村・古関の研究家斎藤秀隆さん、野村・古関の功績を街づくりに生かす活動を展開する渡辺啓道さんの3人に、野村・古関が手掛けた音楽作品の魅力や人柄、エピソードなどを語ってもらった。
司会 野村俊夫は福島民友新聞記者を経て作詞家・詩人として上京しました。鈴木さんに、作詞家・詩人として、家庭人としての野村の思い出をお聞きしたいと思います。
鈴木 家庭では、子どもたちを大事にしてくれた父でした。母は、あまり外へ出掛けたがらなかったので、父と2人で外出した姿はあまり覚えていません。小さなころから子どもたちを福島や栃木県那須市の温泉に連れて行ってくれて、楽しく過ごした思い出があります。私は、姉2人で末っ子の長男だったので、大事にされ、あまり怒られた記憶がありません。
詩人としての父は、仕事をするのはほとんど夜中でした。日中は子どもたちがうるさいので、みんなが寝静まってから作品作りをしていました。昼はよくパチンコをやりながら、突然詩を書き出すんです。どこでも作品のことを考えていたんだなと思います。
酒は強かったですね。タバコも吸いました。家ではあまり飲まず、外で知人を呼んで酒を飲み、交友を楽しんでいました。伊藤(久男)さんと大酒を飲み、熱海まで行ったというエピソードも聞いています。
司会 上京後もたびたび里帰りし、母校の福島商業高の校歌(※3)や「福島音頭」など福島にちなんだ曲を多数制作しています。
鈴木 福島市の信夫山からしこ名を取った信夫山という力士が好きで、子どもたちと一緒に応援していました。野球は巨人が大好きで、負けると機嫌が悪くなり、かっかしていました(笑)。
戦時中は、母の実家があった伊達市富成に姉2人と私も疎開し、近くのおじの家で遊んだことが思い出です。田舎の楽しさはそこで覚えました。私は東京生まれなので、福島に来ると本当に楽しかったです。父は家庭では仕事の話はあまりしなかったので、記者時代のことを聞いたことはなかったですね。
司会 鈴木さんは、野村さんの子どもとして、苦労された点はありますか。
鈴木 「湯の町エレジー」がはやったころは、姉が学校で「エレジー」と呼ばれ、いじめられたことがあったそうです。野村は芸名で本名は鈴木でしたから、学校では私が野村の息子だとは分からなくて、おかげで穏やかに過ごすことができ、プレッシャーはありませんでしたね。
※3 福島商業高校歌「若きこころ」 作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而。1957年、同校が創立60周年を迎えるにあたり発表された。野村は1916年に同校(当時は福島商業学校)に入学したらしいが詳細な資料はない。家庭の事情や健康上の理由で卒業はしなかったとされる。古関は1928年に同校を卒業している。
湯の町エレジー 1948年発表。作詞・野村俊夫、作曲・古賀政男、編曲・佐伯亮。近江俊郎が歌い、40万枚のヒットを記録。近江主演で映画化もされた。
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