福島が生んだ名コンビ 野村俊夫生誕115年・古関裕而生誕110年記念鼎談(3)

 
1930年4月13日の福島民友新聞夕刊1面を飾った野村の純粋詩

 福島市が生んだ昭和を代表する作曲家・古関裕而。古関の幼なじみにして、後に名コンビとなって数々のヒット曲を世に送り出した作詞家・野村俊夫。今年は古関の生誕110年の年にあたり、きょう21日は野村の生誕115年の日にあたる。野村の長男鈴木克東さん、野村・古関の研究家斎藤秀隆さん、野村・古関の功績を街づくりに生かす活動を展開する渡辺啓道さんの3人に、野村・古関が手掛けた音楽作品の魅力や人柄、エピソードなどを語ってもらった。

 型にはまらない自由人

 司会 斎藤さんにお聞きします。野村俊夫は福島民友新聞の記者として活躍しましたが、当時はどういう時代で、どんな記者だったのでしょうか。

 斎藤 昭和の前半は非常に自由闊達(かったつ)な時代で、野村先生は福島民友新聞に文芸欄を設け、そこを作品の発表の場にしていました。野村先生は、一日一作主義で詩作に励んでいたようです。

 また、野村先生は、古関先生が20歳の時に「竹取物語」ほか4編を応募した国際作曲コンクールで銀賞受賞を果たして以降、古関先生を頻繁に民友に出入りさせていたようです。

 当時の福島民友新聞の「コドモページ」欄では、子どもが書いた詩に、古関先生が曲を付け、その譜面を掲載するなどしていました。

 司会 記者として活躍した経験が、その後の創作活動にどう生かされたのでしょうか。

 斎藤 野村先生は、型にはまらない自由な人で、権威にはおもねらない人でした。しかし、文壇、画壇、音楽界などが軍国主義一色に染まる中で、政府の意に合わないと作品が没になり、生活ができませんでしたから、やむを得ず軍国主義的な作品も書いていました。「暁に祈る」では、作品作りに悩みに悩んで、7回目にしてやっと検閲を通るなど、生みの苦しみに直面していました。

 鈴木 「暁に祈る」は、検閲が通らないために何回も書き直しているうちに、困ってしまい、おなかが痛くなり、「アーアー」とため息をついたので、歌の冒頭が「ああ」になったと父から聞いています。

 司会 斎藤さんにお聞きしますが、野村・古関コンビのデビュー曲「福島行進曲」(※4)は、どんな意味を持つ曲なのでしょうか。

 斎藤 昭和のはじめには、「八戸小唄」など各地で地元の歌がはやった時期がありました。福島でも「福島小唄」や「福島行進曲」などを作ったのですが、野村先生も古関先生も、まだ若かったから地方の歌としてヒットさせる力をまだ養ってはいませんでした。

 優れた曲でも、歌うのは一般の人でプロではありませんから、彼らの評価に堪えうるには、まだ少し足りない点があったのだと思います。

 野村先生と古関先生も電話で、「私たちが素晴らしいと思い作った曲がヒットしなくて、そうでもない曲がヒットしている」と話していたことがあったそうです。

 ※4 「福島行進曲」 1931年発表。作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而。裏面は竹久夢二作詞の福島小夜曲(セレナーデ)。野村、古関にとってのデビュー作。発売にあたり、福島市の日野屋商店畜音器部(現・日野屋楽器店)でレコード発売記念楽譜抽選会が開かれたとの記録が残る。