【証言あの時】川内村長・遠藤雄幸氏 「帰還宣言」へ固い決意

 
遠藤雄幸川内村長

 「戻れる人は戻る。心配な人はもう少し様子を見てから戻りましょう」。川内村長の遠藤雄幸は2012(平成24)年1月31日、県庁の県政記者クラブで報道陣が構えたカメラのフラッシュを浴びながら、避難先からの「帰村」を宣言した。11年3月の東京電力福島第1原発事故で役場機能ごと避難した9自治体のうち初の「帰還宣言」だった。

 村は原発事故の進展に伴い11年3月16日に全村避難を余儀なくされた。主な避難先は郡山市のビッグパレットふくしま。通路にも住民があふれる過酷な環境で、遠藤は自らの疲労を顧みることもできないまま、住民の安否確認や住まいの確保の陣頭指揮に追われた。

 先行きが見えない中、わずかな光が差した。「村の空間放射線量が思っていたほど高くない」。同年4月ごろにもたらされた朗報だった。遠藤は「もしかしたら村に帰ることができるかもしれない」と考えた。その思いは翌5月に入り、村民とともに村へ一時帰宅することでますます強くなった。遠藤は、職員に村の復旧計画を作ることを命じた。

 帰村への道を探る中で放射線に関する本に数多く目を通し、遠藤にはどうしても自分の目で見たい場所ができた。1986年に発生したチェルノブイリ原発事故の被災地だ。ちょうどその頃、福島大を中心とした調査団に加わることを打診され、2011年10月末からベラルーシ、ウクライナの地を訪れた。

 チェルノブイリ原発近くの公園では、事故で消滅した自治体の名を墓標のように並べたモニュメントを見た。事故で原発近くの古里から追われた住民からは「戻れる可能性があるなら頑張って」と励まされた。食品や環境を徹底して検査して安全を確保する取り組みも学んだ。遠藤の中で、必ず古里に帰るという決意が固まった。

 しかし、村民の意見を聞いてみると賛成、反対の意見が渦巻いた。「期限を切って、みんな一斉に帰るのは無理ではないか」。11、12月と悩み抜き、帰村宣言の文案が生まれた。帰村宣言後、体調不良で医療機関を受診すると「十二指腸潰瘍です。できれば1週間入院を」と勧められた。

 遠藤は、自らが向き合ってきた重圧を改めて思い知った。点滴で痛みを抑え、帰村の準備を進めた。12年5月ごろには震災前の6分の1に当たる約500人が村に戻った。遠藤は「守るべきものがあったから、前向きになれた」と当時を振り返る。(敬称略)

 【遠藤雄幸川内村長インタビュー】

 遠藤雄幸川内村長(65)は東京電力福島第1原発事故による全村避難、そして帰村宣言を経験した9年半を振り返り「逃げろという指示は簡単だが、自分の家に戻るのが何でこんなに難しいのかとずっと感じてきた」と思いを明かした。

 逃げろと言うのは簡単。悔しくて涙がこぼれた

 ―震災当初、川内村が富岡町の住民を受け入れた経緯は。
 「村議会が閉会したばかりの時刻に地震が起きた。強い揺れに襲われ、机の下に頭を突っ込んだ。すぐに対策本部を設けて被害状況を調べた。道路の崩落などが確認されたが、暗くなってきたので調査を打ち切った。この時、東京電力福島第1原発が異常なことになっているなど頭になかった」
 「3月12日朝、当時の遠藤勝也富岡町長から『原発の様子がおかしいので2、3日避難させてくれ』と電話があり、富岡町民を受け入れた。朝6時半ごろに自宅から役場に向かうと、すでに富岡から来る人たちの車の列ができていた。土曜日だったので公共施設を開放し、避難を受け入れるよう指示した」

 ―川内村が全村避難するきっかけとなった出来事とは。
 「富岡町と合同で会議を開きながら今後の対応を議論していた。(福島第1原発の)1号機で爆発があり、東電の職員が来て『あれは水素爆発で放射能漏れはない』と説明したが、何か顔色がおかしかった。その後も2回ほど職員が来たが、要領を得ない。『大丈夫なんでしょ』と聞いてもはっきりと答えなかった」
 「その後、当時の枝野幸男官房長官がテレビで原発から20~30キロ圏内の人は屋内退避してとアナウンスした。自分たちが思っている以上に状況は悪いのではないかと感じた。14日に3号機が爆発した時には遠藤町長とニュースを見ていた。遠藤町長が『もしかしたら、しばらく帰らんにな』と言ったことを覚えている。富岡町議に東電の社員がいて原発の構造などを解説してくれていたが、3号機の爆発を見て『まさか』と言って言葉を失っていた。ざわついていた庁内が一瞬でシーンと静まり返った。この時、避難を覚悟した」

 ―川内村の避難先を郡山市のビッグパレットふくしまに決めた理由は。
 「報道機関が村からいなくなり、15日の対策本部では(富岡町から川内村に来ていた)警察が『本部から川俣町に移動しろという命令が来た』と言った。『残された俺たちはどうすんだい』と聞いたが、黙っていた。恐怖を感じた。情報もなく、国や県からの指示もない。遠藤町長と相談して、15日に村民に自主避難を呼び掛け、16日には避難させようと判断した」
 「当時の松本友作副知事に電話して『ビッグパレットに向けて出発した』と言ったら『施設が地震で痛めつけられているから、会津若松市に行って』と言われた。『それは難しい。何とか受け入れて』と言い、了解をもらった。8台ぐらいのマイクロバスを使い、車を運転できない人や高齢者をピストン輸送した」
 「自分も16日午後10時ごろだったか、役場を閉鎖した後に家で着替えを取って避難した。田村市都路町との境まで来たら、一斉に携帯にメールが入ってきた。村では携帯が通じなかった。家族や友人、知人から『早く逃げろ』みたいな内容がたくさん入っていた。それを見てなぜか涙が止まらなかったのを覚えている。今思うと悲しさではなく、何の情報もなく、避難せざるを得なかったという悔し涙だった」

 ―ビッグパレットふくしまの避難生活はどうだったか。
 「可能な限りの手段を使い、まずは村民の安否確認を急いだ。毎日朝夕に2回は避難所を歩き村民の話を聞いた。『いつごろ帰れるのか』『体調が悪くなった』という話が多かった。4月から5月ごろにかけ村の線量が思ったより高くないことが分かってきた」
 「5月に一時帰宅が許された。自分の家に入るのになんで防護服を着て土足で上がらなければならないのかと思った。家から持ち出せるものは透明の袋一つだけ。若い夫妻の袋の中身は子どものものばかりだった。聞いてみると『子どもにいろいろと頼まれて自分たちのものは詰め込めなかった』と。年配の夫婦は『しばらく戻れないから、家や周りの写真を撮っていたら(一時帰宅に限られた)2時間はあっという間だった』と。悔しくて抑えることができずにぼろぼろと涙がこぼれた」

 チェルノブイリ訪問、避難住民から受けた激励

 ―10月にチェルノブイリに行っている。現地で印象に残ったこととは。
 「さまざまな本を読み、チェルノブイリ原発事故について知っていたし、どうなっているのか見てみたいとの思いを強くした。その時、当時の清水修二福島大副学長から(調査団に同行しては)どうだいと言われたので手を挙げた」
 「原発も印象深かったが、事故によって廃虚になった都市(プリピャチ)があった。メリーゴーラウンドがあり、子どもたちが楽しく遊んでいたんだろうなという場面を思い描いた時、親の気持ちになって胸が熱くなった。キエフに避難した人の話を聞く中で『福島のことは知っているよ。戻れる可能性があるのなら頑張った方がいい。いつまでも見守っているから』と言われた」
 「実際に行ってみて、放射線は測定することである程度コントロールできると感じた。現地では森でベリーやキノコ、ジビエを取って生活している人もいる。森にある立て看板には『入るな』ではなく『放射線を測れ』と書いてあることを聞いて、放射性物質とどう対峙(たいじ)しながら生活できるかを村に帰って考えていかなくてはと思った」

 ―川内村に戻ることを考え出したのはいつごろか。
 「戻れる可能性があると感じたのは(2011年)5月末か6月。そのために復旧計画を作れと職員に言った。チェルノブイリから戻ってから、長崎大教授の高村昇さん(東日本大震災・原子力災害伝承館館長)の講演を聞きに行き、高村さんに『村に帰りたいから戻れるかどうか土壌や水を調査してください』と頼んだ。(高村さんは)11~12月にかけて調査し『結論から言えば心配ない』との答えを出してくれた。『だったら戻ろう』と意を強くした。10月ごろから住民懇談会を始めていた。国からは『まだ村の状況を見てからの方がいい』と言われた」
 「何とか一日も早く戻りたい。そのために除染をこうやるとか話した。ところが、懇談会をやるほど『戻れないんじゃないか』という意見が多くて悩んだ。感覚的に怖いという思いがあり、特に子どものいる世帯はかなり慎重だった。一方で、仮設住宅を回ると高齢者から『村長、私が死ぬ時は自分の家だからね』と言われた。なかなか全員で戻るとか、期限を切って戻るというのは難しいと思った」

 不条理、ジレンマ、あつれき、不公平と闘ってきた

 ―帰村宣言をした当日を振り返ってほしい。
 「朝に県庁に行って記者会見の前に当時の佐藤雄平知事と会って報告した。その後に記者クラブで宣言した。文言は自分で考えた。『難しい問題はあるけれど、力を合わせて村に戻ろう』『りんとしてたおやかな村を築いていこう』という話をしたと思う。制限や制約があるのではなく、それぞれの判断を尊重すると。原発の20キロから外は避難指示解除準備区域で自由に出入りできた。そういう中で戻りたい人は戻ったらよいのではと思った」
 「(12年の)1月31日に帰村宣言したが、それまで何か空腹になるとおなかが痛かった。2月に病院に行くと『十二指腸潰瘍だ』と宣告された。これまで潰瘍になるようなことなどなかった。医師から『1週間ぐらい入院するように』と言われたが、そんな時間はなかった。2、3回、点滴に通って薬を飲んだ。それだけかなり追い込まれていた」

 ―帰村宣言をしても戻る村民は少なかったのでは。
 「懇談会で帰らないという意見を聞いてきたので4月に役場機能や学校を再開しても戻ってくる人は少ないのではと考えていた。しかし、4月に既に200~250人が戻って生活していた。再開して1月ぐらいには450~500人に増えた。ほとんど高齢者だったが、保育園から小中学生までの子どもが38人戻ってくれた。子どもの姿を見た時、古里を守るために何をしているのか、それから古里への思いをしっかりと伝えなくてはと感じた」

 ―震災から9年半が経過する。振り返るとどのような歳月だったか。
 「逃げろという指示は簡単だが、自分の家に戻るのが何でこんなに難しいのかとずっと感じてきた。原発事故の特性なのだろう。自然災害とは全く違う」
 「9年間は不条理やジレンマ、あつれき、不公平と闘い続けてきた。いつも背中を押されているような緊張感のある日々だった。ただ、新しい村づくりに取り組むことができた。今までできなかったことをやる、あるいは、本当はやめたいけどやめられなかったことを剥ぎ落とすという役割もあったと思う」

 ―最後に震災を知らない世代やこれからの子どもたちへのメッセージを。
 「判断して実践する難しさを感じてきたし、そのことによって自分はだいぶ人間的にも磨かれた。いろいろなことが起きても、どういう判断がされても解決する道はあると伝えたい。『自分に守るべきものがある。大切なものがある』という気持ちを持つことが、自分を奮い立たせるのに一番有効な手段だ。だからこそ私も前向きに頑張って進むことができた」