【証言あの時】前大熊町長・渡辺利綱氏 中間貯蔵一人腹固めた

 
渡辺利綱前大熊町長

 「全てを話すことはできないのだが」。前大熊町長の渡辺利綱は言葉を選びながら語り始めた。渡辺は中間貯蔵施設(大熊町、双葉町)の建設受け入れに至るほぼ全ての流れを知る数少ない"証人"の一人だ。東京電力福島第1原発事故後の除染で出た県内の汚染土などを保管する施設の建設は、本県全体の復興に欠かすことができない重大な決断だった。受け入れの背景に何があったのか。

 本県への施設設置を打診したのは、2011(平成23)年3月の原発事故当時、民主党政権で首相を務めていた菅直人だった。同年8月27日、県庁で開かれた会合の席上、菅は当時知事だった佐藤雄平に対し唐突に施設の設置を要請した。政府はその後、原発に近い双葉郡内への設置を求め、長く複雑な交渉の末に候補地を大熊、双葉両町へと絞り込んでいった。

 渡辺は「時期を詳しく言えないが、かなり早い段階で打診があったことは事実だ」と打ち明けた。しかも当初は大熊町のみに設置する提案だったという。全町避難を余儀なくされている状況での重い要請に、渡辺は「大熊町1町の問題ではない」と拒否した。

 原発事故で県内各地に拡散した放射性物質を除染し、その過程で出た土壌などをどこかに集約しないと環境再生は進まない。「理屈は分かっているが、それが大熊なのか」。渡辺には割り切れない気持ちの中で、どうしても頭から離れない考えがあった。「放射線量が高い大熊町の土を、どこか引き受けてくれるところがあるのだろうか」。渡辺は一人、受け入れへと腹を固めていった。

 町民への説明の前、町の担当課長が「反対意見が多かったら引き受けられませんね」と言った。渡辺は「反対してどこかに決まるのなら、俺もどこまでも反対する。だが、現実はそうではないだろう」と諭した。渡辺は、復興支援策や賠償基準と複雑に絡み合う政府交渉に心血を注いでいく。

 「先祖伝来の土地だ。建設は絶対反対」「もう帰れない。早く方針を決めて」「避難先の自治体が除染ごみに困っている。大熊が協力するしかない」。住民の意見は分かれたが、どれも正論だった。そのような状況に町民を追い込んでしまったことを「本当につらかった」と振り返る。

 公式、非公式の会合を重ね、政府からさまざまな譲歩を引き出した。苦渋の決断だった施設の受け入れ。「町民の救済や大熊町の復興を進めるため。そのことだけを考えての受け入れだった」。渡辺のその思いは今も揺るがない。(敬称略)

 【渡辺利綱前大熊町長インタビュー】

前大熊町長の渡辺利綱氏(73)に中間貯蔵施設の建設や搬入受け入れに至る経緯などを聞いた。中間貯蔵施設は今も大熊、双葉の両町で整備が進む。渡辺氏は2011(平成23)年8月からおよそ3年半に及ぶ長い交渉の間、その時々の政治情勢などで紆余(うよ)曲折があったと明かした。

 反対が現実的にできなければ町民をどう救済していくか

 ―町長退任を表明した時に中間貯蔵施設の受け入れを「一番大きな出来事」と表現しているが、その気持ちは。
「(退任から)まだ時間がたっていないし、他の自治体に関わることもあるので全てを話すことはできない。中間貯蔵施設の問題は、単に施設の受け入れの議論だったわけではない。東京電力の賠償や仮設住宅の建設などいろいろなことが絡んでいた。復興をどのように進めていくかという問題が同時並行で議論され、複雑な判断、決断が求められた」

 ―公式には2011年8月に当時の菅直人首相が佐藤雄平前知事に打診し、議論が始まった。初めて打診があったのはいつか。
 「その辺も微妙だが、いろいろと水面下で打ち合わせがあった。大熊、双葉、楢葉の3町の名前が候補として挙がる前の早い段階で『大熊町だけでお願いします』という話があったことは事実だ。国から『町長、大熊で受けてくれないか』と言われたが、『荷が重いし、大熊町1町の問題ではない』と断った」

 ―議論は国と県、双葉郡8町村の枠組みで進められた。8町村の雰囲気はどうだったか。
 「(震災当初の双葉町長だった)井戸川克隆町長は受け入れに反対だったように、双葉郡が一枚岩で施設の受け入れを協議するという雰囲気ではなかった。誰だって首長は自分の町や町民がかわいいわけだから。それを露骨に出したりしたら、とても施設の問題は解決しない。解決しなかったら福島の復興は進まない。そのような状況で、建前と本音を使い分けて話していた」
 「自分の場合、大熊町長という立場で『大熊町の汚染された土壌をどこが引き受けてくれるんだ』と考えていた。町政懇談会をやる日程を組んだ時、担当課長から『町長、町政懇談会をやって反対が多かったら引き受けられませんね』と言われたが、『その気持ちは分かる。でも大熊町の土をどこが引き受けてくれるんだ。反対してどこかが受けてくれるなら、俺も最後まで反対してもいいんだ』と言った」
 「正直に言えば、反対している方がトップとしては楽だったと思う。『町民が反対だから』と町民を前面に出して。でも、現実問題としてどこまでそれを通せるのか。通していったら、結局は町民が困ることになると思っていた」

 内堀氏は「県は町の立場」とやり合っていた

 ―早い段階から中間貯蔵施設を受け入れる覚悟を決めていたのか。
 「自分の腹では決めていた。もう、それしかないんだっていうかな。(受け入れ)反対が現実的にできないとするならば、大熊町として施設を受け入れるという選択をして、後は町民をどのように救済していくかだと」
 「町政懇談会では『絶対に反対だ。先祖から受け継いだ土地や田畑、墓まで国に取られるのか』『もう帰れないと思うから条件次第では譲りたい。早く将来像を示してくれ』『郡山市に避難していて学校の近くにいる。フレコンバッグに入れられた(除染で出た)土があり、子どもたちは不安で外で運動もできない。われわれが世話になっているのだから大熊町が協力しよう』などの声が上がった。それぞれが正論であり、聞くのはつらかった」

 ―除染が進み、どこかに施設を造らなければ復興が進まないという雰囲気があったと思う。他の自治体と溝のようなものを感じたことはあったか。
 「それはあった。複雑な気持ちだった。早く決めろというが、『勝手なもんだ。自分たちが当事者でないと』と思っていた。でも、その気持ちも分かる。どこにでもフレコンバッグがあったのだから。町民が避難して世話になっていて、肩身の狭い思いをしていたこともあったから」

 ―議論が進み、楢葉町を候補から外して2町に集約する時、佐藤前知事は土地の賃借を認めることや30年以内に必ず県外に持ち出すことを確約するよう国に要請した。大熊町も同じ考えだったのか。
 「その通り。当時は副知事だった内堀雅雄知事が、佐藤前知事から全権を委任されたような形で国と交渉していた。内堀知事は官僚出身ということで、国の言いなりだとかいう報道もあったが、そうではなかった。『国、県対町という構図ではありません。(国と町で意見が分かれたら)県は町の立場でやりますから』とはっきり言い、国とやり合っていた」
 「賠償の問題などでは、(井戸川町長の次に双葉町長になった)伊沢史朗町長と一緒に県内や都内で国などと交渉した。報道機関に追い掛けられるから時間帯をずらして会場に入ったり、別々に帰ったりした。ホテルなんかではすぐに動きが分かってしまう。どこか分かりにくいところはないかと考え、郡山市の農業関係の施設で何回も会議したこともあった。自民党の東日本大震災復興加速化本部にも通った。当時本部長の大島理森さん(現衆院議長)の力は大きかった」

 ―交渉中の国の対応はどうだったのか。
 「土地の買い取り価格の問題は苦労した。国は、財物賠償で土地の下落分を払っているので上乗せはできないと主張した。それは理屈なのだろうが、伊沢町長と一緒に『地権者は泣く泣く協力している。それでは話は進まない』と言い、国とやり合った。結局は、国や県からの交付金などを活用して『見舞金』という形で支援することに収まったのだが、いろいろと骨が折れた」

 ―さまざまな条件が整い、佐藤前知事が建設受け入れを表明するのだが、その時はどう感じたか。
 「佐藤前知事としては、県内にあれだけ放射性物質があって(復興が)前に進めない時に『受け入れません』とは言えなかっただろう。佐藤前知事も自分たちもみんな大変だった」
 「実は佐藤前知事が受け入れを表明しに安倍晋三前首相に会いに行った時、(方針を伝えられて理解はしていたが)まだ町としては受け入れを表明していなかった。それは双葉町も同じ。『一緒に行くのはおかしい』と言ったら、県から『知事だけ行かせるのはどうでしょう。何も言わなくていいので同席してください』と頼まれたので、仕方がないと、伊沢町長と同行した」

 土地の国有化国は方針なかなか曲げなかった

 ―早い段階から覚悟していたとはいえ、実際に中間貯蔵施設の受け入れが動きだした時はどうだったか。
 「(30年後に希望すれば土地を返還してもらうことができる)地上権の問題があった。国は土地を国有化する方針をなかなか曲げなかった。一方的に、上から目線というか、陰では『どうせ不毛な土地だ。買ってやるんだ』というくらいだった。時には態度に出るようなこともあった」
 「結局は『地権者の気持ちを考えてくれ』と訴え、希望者に地上権の設定を認めてもらうことになった。しかし、最初は『土地が戻ってくるのは良かった』と考えていた人も、後々になって『30年後、子孫にさまざまな負担をかけるようになるのではないか。地上権を設定しようと思ったが、やはり国に売る』という人も結構多かった」

 ―当時の石原伸晃環境相の「最後は金目でしょ」などの発言もあったが、どう感じていたか。
 「石原大臣はいつも『自分の任期中に頼まれたことは実現する。そのためにはお金が必要だ。それは自分が財務省から引っ張ってくる』と言っていた。それがぽろっと出たのだろう。その気持ちは分かっていたし、実際にいろいろ町のためにしてくれたことはたくさんあり、逆に『この失言で辞めてもらっては困る』という感じだった」
 「確かに環境大臣として駄目な発言だった。すぐに環境省のトップクラスの人から『町長、失言して申し訳ないけれども、実は本心はこうなんだ』と連絡があった。『いや、われわれも分かっているから』と。続いて環境大臣になった人たちは失言もしないけれども仕事もしなかったという印象だ」

 ―建設受け入れの後、最終的な県外への運び出しを明記する法案などが成立し、施設への搬入受け入れを内堀知事と2町が判断するのだが、その間にどのようなことがあったか。
 「福島市や郡山市の人が手紙を送ってきたことがあった。『安易に受け入れるのはやめてくれ。福島県全体が放射性物質で汚染されたようなイメージになる』とか『福島第1原発ではなくて、大熊双葉原発だったら、われわれも風評に苦しむことはなかった』とか書いてあった。一理あるとは思うが、複雑だよ」

 ―中間貯蔵施設の受け入れは、大熊町にとって復興を進める切り札になったのか。
 「それはある。(常磐道の)大熊インターチェンジもできたし。国は受け入れるんだったら、最大限の協力をしますよという姿勢だった。復興の前線基地となる(町内の)大川原地区の整備でも、福島復興再生特別措置法を改正し、通常ではできないような税制優遇や用地買収への交付金活用などを進めてくれた」
 「ただ、大川原地区の整備が進められているものの、町全体から見ればまだまだだ。今でも国の一部には『住民が帰らないところにお金をかける必要があるのか』という考え方があるように感じる。しかし、震災直後から言ってきた通り、帰る帰らないは町民が判断することであって、帰る環境をつくるのは国と東京電力の責任だ。そこは必ず守ってもらうつもりだ」