【証言あの時】前南相馬市長・桜井勝延氏 世界の目集めた動画

 
桜井勝延前南相馬市長

 「人はお互い助け合ってこそ人だと思います」。2011(平成23)年3月26日、南相馬市長だった桜井勝延は動画投稿サイト「ユーチューブ」を通じて国内外に支援を呼び掛けた。東京電力福島第1原発事故に伴った政府の屋内退避指示で物流は完全に止まった。政府や県からの支援も滞る中、全市的な避難が行われた。

 東日本大震災が発生した3月11日、桜井は市議会の一般質問に臨んでいた。尋常ではない揺れに議会は延会に。桜井はすぐさま災害対策本部を設置し、情報収集した。「津波が来る」とのラジオ放送を聞き、桜井は市役所の屋上に上がり、海の方向を見た。

 壁のようにもうもうと立ち上る土ぼこり。津波が押し寄せ、沿岸部に膨大な量の海水がたたきつけられた瞬間だった。鹿島区から小高区までの海沿いで甚大な被害が出ており、住民は避難所に逃れた。この日の夜、原発で働いていた市民が市役所を訪れ、桜井に告げる。「原発が爆発するかもしれない」

 翌12日、第1原発1号機の建屋が水素爆発で吹き飛び、政府は原発から半径20キロ圏内に避難指示を出した。「20キロ圏内ってどこまでだ」。テレビで知った桜井や市職員は地図を広げて見当をつけ、避難所などに身を寄せていた20キロ圏内の小高区の住民の再避難を始めた。

 原発の状況は悪化の一途をたどり、14日に3号機が水素爆発した。桜井は近隣の自治体やバス会社と連絡を取り、住民を市外に避難させる準備を始めた。

 政府は15日、3号機の爆発を受け半径20~30キロ圏内に屋内退避を指示した。避難を本格化させようとしていた矢先に物流が止まった。鹿島区は30キロ圏外だったが、すでに市内全域で市民生活が困難な状況となっていた。桜井は全市での避難を決断し、16日に新潟県への緊急避難計画を策定した。

 避難のためあるだけの物資とつてを使った。バスに乗って古里を離れる市民と見送る桜井。その時、「これで安心だ」という市民の気持ちが伝わってきたという。市内には介護などで避難できない住民もいたため食料などを配った。

 ユーチューブの動画を撮影したのは避難が終盤を迎えた24日だった。ボランティアで訪れた地元出身者がカメラを回した。「とにかく助けてくれってしか言えなかった」と振り返る。動画で世界の目が南相馬に注がれた。動画は、桜井が米誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」に選ばれるきっかけともなった。

 その後、桜井は政府文書を開示請求する。桜井が目にした「20キロ避難指示」の文書には南相馬と書かれておらず「屋内退避指示」の文書に、その文字を見つけた。「いずれにせよ、(政府からは避難の)連絡なんてなかった」。桜井はつぶやいた。(敬称略)

 【桜井勝延前南相馬市長インタビュー】

 前南相馬市長の桜井勝延氏(64)に、東京電力福島第1原発事故による避難や屋内退避時の状況などを聞いた。

 小高区該当「20キロ圏内ってどこまでだ」既に夜になっていた

 ―2011年3月11日の震災発生時はどこにいたか。
 「市議会の一般質問の最中だった。議会は延会になり、災害対応に入った。余震の恐れがあったので庁舎の外に出て職員を集め、災害対策本部を開いた。津波が来るだろうから避難勧告を出すように言った」
 「ラジオで津波が来ると聞いたので市役所の屋上に上がった。沿岸一帯が土ぼこりでもうもうとし、火事のようだった。それは津波が地面をたたきつけた瞬間だった」

 ―津波への対応を聞きたい。
 「11日午後5時の災害対策本部の段階で、すでに相当な犠牲者が出ていた。鹿島区から小高区まで避難所を開けるよう指示した。とにかく沿岸の住民を(津波の来ない避難所まで)バックさせた」

 ―原発が危険だという情報は入っていたか。
 「全くなかった。ただ、11日午後11時ごろ、原発で働く市民が市役所に来て『原発の中は大変なことになっていて、われわれも避難する。もう爆発するかもしれないから、避難を呼び掛けた方がいい』と言ってきた。本人からすれば確かな情報かもしれないけど、われわれにとっては未確認の情報。市民に指示できるような状況でもなかった」
 「ちょうど同じころ、職員の携帯に、原発で働いている父親から『コントロールが利かない。自分たちも避難する』というメールが入った。爆発は想像できなかったけど、やばい状況なのかなとは思った」

 ―1号機の水素爆発をどのようにして知ったか。
 「12日午後3時すぎ、災害対策本部を開いていた時、出席していた警察から『原発が爆発した』と無線連絡があったと聞いた。すぐに防災無線などを使い『とにかく屋内にとどまって』と市民に呼び掛けた。ただ、その後に『そういう情報は確認されていない』という話も入ってきたので『誤報だったので屋内退避はしなくていい』と放送してしまった」
 「午後5時すぎに見ていたテレビで『20キロ避難指示』のテロップが出たので、もう一回、防災無線と、できる限りの連絡網を使って(市民に)20キロ圏内から避難するよう呼び掛けた」

 ―半径20キロ圏内に該当したのが小高区。どのように避難させたのか。
 「とにかく避難させようとなり、地図を広げた。20キロというのは太田川の辺りだろうと見当をつけ、川の北側、中でも石神方面に避難誘導した。夜だったので個人の車で移動してもらったが、避難所は至る所で満員になった。1万人を超える人が移動したわけだから。そのまま西に向かい、飯舘村や福島市に行った人もいたそうだ」
 「津波の犠牲者や行方不明者がどれだけいるか分からず、救助にも力を入れなければならない状況だった。『家族が見つからないのに避難できるわけがない』という人が相当いた」

 新潟知事「市民全員受け入れる」と言ってくれた

 ―そのような状況の中で3号機が水素爆発した。どのように感じたか。
 「13日ごろから携帯メールが通じなくなった。ラジオを聞くと3号機が危ないという。13日夜に『市民を避難させるバスを確保しろ』と指示した。だが、どんなに頑張っても(バスを)確保できなかった。そして14日午前11時ごろに3号機が爆発した。小高区からの避難も完全ではない状況で、警察から『きのこ雲が上がった』と聞き、もうおしまいか、と思うぐらいだった」
 「みんなが焦っている中、夜になって自衛隊が来た。迷彩服とガスマスク姿で市役所や病院などに入り『100キロの避難指示が出たから避難しろ』と言って回った。これを聞いた人が避難を始めた。県に確認して事実でないと分かったが、すでに仙台の近くまで避難した職員もいた。医師と看護師が避難してしまった病院もあった」

 ―その後の避難をどのように進めていったのか。
 「相馬市の立谷秀清市長に14日に『避難させてくれ』と電話した。15日に返事が来て『相馬女子高跡地が空いてるから避難していい』ということになった。バス会社の社長とも連絡がついた。社長は『浪江町から頼まれて住民を津島地区に運んでいる。それが終わったら行く』と言ってくれた」

 ―15日になって20~30キロ圏内に屋内退避指示が出されたが、それは前のことか、後のことか。
 「たぶん後のことだったと思う。原発から20キロ近くにある避難所には(市民が)1500人ぐらいいて、とにかく30キロ圏外に出そうと考えた。バス会社の社長からも『今から行ける』という連絡があり、15日夕方から相馬に向け避難することにした。立谷市長のつてで宮城県丸森町にも避難先を確保することができた」
 「屋内退避指示が出たと分かったのは午後3時ぐらいだと思う。もちろん連絡はない。15日にようやく相馬市などに1500人ぐらいを運ぶことができた」

 ―本格的な避難をどのように行ったか。
 「16日朝にNHKの朝のニュースに出て市内の状況を話した。(物流が止まり)15日から物が入らなくなったこととか。それを見た新潟県知事の泉田裕彦さん(現衆院議員)が電話をくれ、『南相馬市民全員を新潟県が受け入れる』と言ってくれた」
 「16日の昼ごろ、『新潟に避難する避難計画を作れ』と指示した。午後7時には避難所で説明会を開き『避難できる人は新潟方面に向かって。市はバスを出すから集まって』」と呼び掛けた。17日から4日連続で避難を続けた。新潟県は、福島市の競馬場辺りまで(避難のための)バスを出してくれた」
 「県境からはバスにパトカーの誘導がつくなど配慮してくれた。後に新潟の市町村を巡った時、首長たちが『経費は全て県が持つから受け入れてくれという話だった』と教えてくれた。当時の福島県の対応とは全く違うと思った」

 ―政府の対応はどうか。
 「17日に(当時の)国土交通政務官の津川祥吾さんが来て『困っていることは何でも言って。明日は松本龍防災担当相(当時)も南相馬に入る』と言ってきた。18日に松本さんが現場を見て、病院に残されていた患者を搬送する段取りをつけてくれた」
 「松本さんは後に宮城県と岩手県で知事たちにおかしなことを言って更迭されるのだが、南相馬には良くしてくれた。何であんなことになったのか。(18年に松本氏が)亡くなるまで付き合ったよ」

 高校の後輩「英語の字幕付けるからしゃべって」

 ―避難時の雰囲気はどうだったのか。
 「群馬県片品村の観光協会が17日に大型バスを24台用意してくれた。『希望が開けた日』だった。見送りに行くと、避難する人たちも『行ってきます』みたいな感じだった。ようやく安心できるところに行けるというか、窮屈な状況から解放されるような気分だったのだろう」

 ―さまざまな事情で避難できない人もいたと思うが。
 「介護が必要な人などが自宅にいた。『こんな時に個人情報保護もないから全部資料を出せ』と言って、入ってきた災害支援のNPO団体などに支援してもらった。重度の要介護者がいるところには家族もいるので支援物資を届けた」

 ―屋内退避は30キロ圏内までだったはず。南相馬市は30キロ圏外の鹿島区の住民まで避難させたが、どのような判断だったのか。
 「本当に物資が入らなかった。生活で維持できているのは水と電気ぐらい。これが駄目になったら終わりみたいな。市内では全然物資を調達できないので、鹿島区の人にも避難を呼び掛けた。市の避難の呼び掛けがあったから、30キロ圏外の鹿島区も精神的損害の賠償をもらえることになった」

 ―当時の枝野幸男官房長官が25日に屋内退避の自治体に自主避難を呼び掛ける。その間に何か話をしたか。
 「枝野さんと話したのは25日。自主避難の呼び掛けの後だった。(当時の)民主党の石原洋三郎衆院議員(現福島市議)が来ていたから彼の携帯から電話をした。『何を勘違いしているんだ。われわれのところは避難を呼び掛けるという話ではなくて、すでに避難できる人の避難は完了している』と伝えた」

 ―枝野氏の反応は。
 「『そういうことになってるんですか』という感じだった。その日の夜遅くに松下忠洋原子力災害現地対策本部長(12年に死去)が来た。『南相馬に何もできなくて申し訳ない。他の自治体では30キロ圏内に残っている人はほぼいない。できることは何でもやる』と言ってきた」
 「『南相馬に経済産業省を持ってきて、仕切ってくれ』と頼んだが、来たのは線量計3台と職員1人だった。4月からはキャリア官僚を3人張り付けてくれ、ようやく意思疎通が取れるようになった」

 ―国内外に支援を呼び掛けた動画投稿サイト「ユーチューブ」での撮影の経緯を聞きたい。
 「東京に行っていた原町高の後輩がたまたま帰ってきていた。24日夕に『カメラに向かってしゃべってくれれば英語のテロップを付ける』ということだった。30分ぐらいしゃべっていいというので、とにかく困っているから助けてくれという話をした。多くの人が見て、3月末には欧州からも報道機関が来た」